湊かなえ「告白」



「道を踏み外して、その後更正した人よりも、もともと道を踏み外すようなことをしなかった人の方がえらいに決まっています。」「三年生の担任を持つと、受験を前にして『この子はやればできるんです』と保護者の方からよく言われるのですが、……『やればできる』のではなく『やることができない』のです。」ご尤もなのですが、そのことに苛立ちを感じている人でなければこんな話を人前ではしない。彼女、小学校教諭、は我が子を殺害した生徒を精神的に追い込んで私刑に処する。否定という形でしか世界と向き合えないのは気の毒だと思うが、この物語で不思議なのは、なんで彼女は有名熱血教師なんかを好きだったんだろうかってことだ。
2009年このミス4位。普通に面白いのですが、新人らしく、描写のそこかしこがこそばゆい。


ジャン・ジュネ「花のノートルダム」

Jean Genet「Our Lady of the Flowers」


かつてディヴィーヌ自身が私に告白したように、私もこう告白することができる。私は微笑みながら、あるいは馬鹿笑いしながら、軽蔑に耐えている。だが、私がこうして自分を地べたよりも低いところに置いているのは、まだ──いつかそうなるというのか?──軽蔑を軽蔑するからではなく、たんに愚かな真似はするまいとの思いからだ。何があっても、誰からも卑しめられまいという思いからなのだ。それ以外、私にはどうしようもなかった。私が、自分は年とったおかまの淫売だと公言すれば、誰もそれ以上の悪口はいえないし、私への罵りの腰を砕くことができる。私の顔に唾を吐くことだってできなくなるだろう。小足のミニョンも同じで、せいぜい私を軽蔑することができるだけだ。(p.131)


もし明日、私が釈放されたらどんなにいいだろう。
(明日は公判だ)
自由になるとは、生ける者たちのあいだで流刑になることだ。私は、自分の住みかの大きさに合わせて自分の魂を作った。私の独房はこんなにも心地よい。自由になるとは、ワインを飲み、煙草を吸い、小市民たちを見ることだ。(p.481)


自分だけが不具だ、自分だけが不適応者だという思いは散々してきたものだが、道外れな精神をどう納得させれば自分の魂は豊かなんだと思えるのか。懐柔させられる気もないしできる人もいないだろう。ふてぶてしさと、身の丈ぶんの誇りはどれだけ長く保てようか。
ずいぶん前に「葬儀」を読んで、その同性愛描写に感銘を受けたのをよく憶えている。ドイツ軍によるパリ占領のさなか、薔薇色の頬をした初々しいフランス少年が、逞しいドイツ将校に憧れるあまり自分の尻を差し出す、というような禁断に禁断を重ねた場面だったと思うが(もはやうろ覚えだが)、うぶで純粋な少年と剛毅な軍人との対比や、かまを掘られる側のいじらしい感じが、聖ジュネさすがは自ら男娼であった。
ジュネが獄中で、ディヴィーヌや彼女の住む屋根裏部屋に居候した「花の聖母」やミニョンらのことを回想し、さらには獄中仲間も一緒くたにして不可解な世界をつくりあげる。窃盗や男色や殺人、その手管に神々しさや純潔さが宿り、老いさらばえたおかまディヴィーヌ(とはいっても30歳過ぎって…)がかわいらしく見えるのは本当に奇跡。


ある無頼漢がディヴィーヌにこういった。
「どっちがいい?かまを掘られるのと、尺八させられるのと?」
食いしん坊のディヴィーヌは、真剣になって、両手をあわせ、口をとがらせていった。
「お願いだから、両方とも」(p.501解説)


小島寛之「天才ガロアの発想力」



エヴァリスト・ガロア生誕200年ということで大型書店の理工フロアではフェアを組んでいて、で化学者と共にその棚の前に立ちどれを読もうかと考えた。結晶理論との関連は薄そうだし中高生向きの本みたいだけど、でも小島さんは数学プロパーじゃない人に対してとてもいい解説をするんですよね。巨匠風の鷹揚さなんだけどこんなこと数学者からじゃなくても聞けるわみたいなふうでもなく、一生懸命解説するも使った比喩表現が幼稚すぎて馬鹿にしてんのかこいつとむしろ反発を買うようなふうでもなく、想定読者のレベルを鑑みず難解な解説をした後で苦しい要約でお茶をにごすふうでもなく、…まあこういうのが多いせいで理工系解説書をあまり読む気になれないのですが、彼は自分がどういう立場で誰に対して書いている文章なのかを常にはっきり意識しておられる。


彼がまず小島を読み、わたしは現代思想1104「ガロアの思考」を読み、串揚げ屋でストローの袋を5角形に折って「回転対称だから!」とか「トポロジカルでもいい?」とかグダグダ言いながら、5角形を辺で繋げていったらもとの位置に戻るかをしこしこ計算していたダメ酔っぱらいを演じたのは早くも2ヶ月前ですか〜、今の子たちって虚数はおろか積分もやらないらしいよ?積分という行為がつくる世界観を持たないってどんななのか想像つかない。


現代思想でわが畏友が「月並み」だと称していたが、2次方程式の解の公式からはじめる解説をこの本も採用している。ただの利便性というか因数分解がうまくできない場合の逃げ道的な解の公式を、新しい拡張への足掛かりとしてとらえさせる、というこちらの教え方のほうを、本当なら普通教育としてやったほうがいいのに。
積分もそうだが、自然科学の計算式は、単に道具として存在するだけではなく、世界をとらえるための美しい概念が含まれている。それを知ったときの爆発的な世界の拡張を体験せずに生きるのは、あまり豊かだという感じがしない。


パウロ・コエーリョ「悪魔とプリン嬢」

Paulo Coelho「The Devil and Miss Prym」


「君や君の町がどうということではない、私は自分のことしか考えていない──ひとりの人間の物語はすべての人間の物語なんだ。人間が善なのか悪なのか、私は知りたい。善なのであれば、神は公正だったということになる。ならば、私のしたことをすべて許してくれるだろう、私のことを挫こうとした人たちの身に不幸が起こってほしいと私が望んだことや、重大な瞬間に私が犯した間違った決定や、今こうして君に提示している提案を、いずれも許してくれるはずだ──というのも、この暗黒の側へと私を押しやったのは神自身だったのだから。
もし人間が悪だということなら──そうなったらすべてが許されていることになり、私は一度も間違った決定をしなかったことになり、われわれ人類は罪人となることが定められており、ならばこの人生で何をしようと大して変わらないことになる。なぜなら、救いは人間の思考や行動を超越した出来事だということになるからだ。」(p.29)


旅人が寒村に訪れて、金を掛けて村人に人殺しを仄めかす。善悪いずれが勝つか。
というのが筋書き。何て言うか、いい設定だしいい結論だしいい思想だと思ったのだが、なんでこんなに雄弁に書いちゃうんだろうというのが率直な感想。旅人もプリン嬢も自分の思想を語り過ぎて、読み手に含みを与えず、そのせいで読後感はするりと抜け落ちた。一瞬ジュブナイルかとも考えたが、そうするにはプリン嬢がやや汚れなんですよね…。
「ベロニカは死ぬことにした」が映像化されたし原作者として知ってはいたが、そもそも今回手にとったのは、1年前に欧州山間の都市グラーツを訪れたときに、現地書店でのフィクション売上1位がコエーリョだったのに驚いたからだ。ドイツ語圏で南米作家が1位だなんて普遍性の賜物だなと。通時性より共時性を生きる読書子としては読まずにはおれません。でもコエーリョを世界的に広めたのは、普遍性ではなく雄弁さなのかもしれない。
コエーリョは専ら信仰者の立場から語っているけれど、善だの悪だの神だのを扱うにしても、信仰からは距離をとった問いの立て方というのは必ずできる。上記の抜粋は、「人間の生は悲劇か喜劇か」と言ってもいいのか。2011.1.23memo参照。正直、アガンベンの神学は理解に困難が多いので、症例という形で役に立ちそうだ。


雄弁な語りの中から、覚え書きを一つ、こういう人が多いので私は日頃やりにくい;
思いやりのある人間という役割を演じるのは、人生において決然とした態度をとるのを恐れている人たちのやることなのだ。(p.57)


堀江敏幸「雪沼とその周辺」



単行本発刊直後、とはもう8年前になるのか、室内にうず高く積みあげられた本のドミノタワー何本も、その頂上のひとつにしばらく鎮座していた表紙、懐かしい。当時想像していたとおりに上質で洗練された静謐な短編集。雪沼を巡る村に住む人々のささやかでつましい生活。各編が絶妙な箇所で幕を閉じる、いやむしろ幕間を挟むだけなのか、村の各所で繰り広げられる営みを切り取り接ぎ足して。


ところが、これでひとまず大丈夫、という組み方でスピーカーを戻し、発育の悪い雀みたいにひょろひょろしながらのぼり下りしていた踏み台のレンガを片づけようとして開け放したドアの外にふと目をやると、安西さんが腕を組んで、ものめずらしそうにこちらを見ているではないか。不世出とうたわれたあの演歌の歌い手が大好きな安西さんは、なにかと言えばそれをかけてくれと言い、あとは浪曲一筋で通している。そうだ、こういうときこそ、ちがう種類の音楽に引き寄せてやりたい。自分の趣味とはかけ離れているのに、おや、と感じるような曲だ。なにがいいだろう?ふたたびちゅんちゅんと台から台へ飛び移る雀となった蓮根さんは、しばらく考えた末に、かかっていたシューマン交響曲を止め、店の奥のレコード棚からフィッシャー=ディースカウの歌う「美しき水車小屋の娘」を取りだし、家具調ステレオのターンテーブルに載せて、重いノブ式のスイッチを三十三回転の目盛りのほうへがちゃりとひねった。トーンアームがあがり、レコードの縁にむかって移動すると、リード部分の沈黙の帯にゆっくり針が降りていく。伴奏の抜けがいい。案じていた低域もしゃきっとして、明るいバリトンが響く。十数秒後、そろそろかと視線を移すと、安西さんが口をすぼめた思案顔のまま、でもひどく心を打たれた乙女のように頬を赤らめて、レジの横に立てかけたジャケットのほうにちらりと目をやるのが見えた。(p.132)


川上未映子「乳と卵」



2008年芥川賞受賞作。当時は、直木賞を同時期に受賞した桜庭一樹に比べて、見て呉れ優先のイマイチな扱いしかされてなかったように見えていた(実際、賞に至るまでの刊行数がフェアを組むには少なすぎた)、だが「ヘヴン」が出た辺りから、いつか読もうと思わせるような評価がなされ始め、漸く今に至ります。
読点だけで短文を連ねていく書き方は、へぇとは思うものの、この書き方が何かに貢献しているという感じがしない。なんとなく川上弘美の訥々とした感じを思い出したが、彼女ほどの世界観には至っていない。むしろまろやかな関西弁と適度な幼児語が、扱っているテーマのきわどさをいい按配に加減していてよい。女性がいきものやってる、なまものが女やってるという感じがします。
豊胸手術を受ける予定で上京してきた姉と、第二次性徴期を迎えた姪とが滞在する、アパートでの女の3日間。


◯胸について書きます。あたしは、なかったものがふえてゆく、ふくらんでゆく、ここにふたつあたしには関係なくふくらんで、なんのためにふくらむん。どこからくるの、なんでこのままじゃおれんのか。女子のなかには見せあって大きくなってるのをじまんする子もおったり、うれしがって、男子もおちょくってみんなそんなふうになってなんでそんなんがうれしいの、あたしが変か?あたしは胸のふくらむのが厭、めさんこ厭、死ぬほど厭や、そやのにお母さんはふくらましたいって電話で豊胸手術の話をしてる、病院の人と話してる、ぜんぶききたくてこっそりちかよってってきく、子ども生んでからってゆういつものに、母乳やったので、とか。毎日毎日毎日毎日電話して毎日あほや、あたしにのませてなくなった母乳んとこに、ちゃうもんを切って入れてもっかいそれをふくらますんか、生むまえにもどすってことなんか、ほんだら生まなんだらよかったやん、お母さんの人生は、あたしを生まなんだらよかったやんか、みんなが生まれてこんかったら、なんも問題はないように思える、うれしいも悲しいも、何もかもがもとからないのだもの。卵子精子があるのはその人のせいじゃないけれど、そしたら卵子精子、みんながもうそれを合わせることをやめたらええと思う。緑子(p.82)


本文中に挿入されてる姪・緑子の日記について、わざわざ「女は日記を読んだ」と釈明して一人称語りに一貫性を持たせている辺りが、川上の真面目さだ。
ところでこの短編、カタストロフ(卵を潰す場面)は要らない気がする。静かなまま終わるほうが、余韻というか書ききらないことの世界の広がりがありそうで、その広がりが短編というものの醍醐味じゃなかろうか。って堀江敏幸を読んだ後だとそうなっちゃいますよね。
「乳と卵」「あなたたちの恋愛は溺死」の2編収録。2編目は読むに耐えない。このタイプの作品は、もっと訓練された作家がやるべき。


ジル・ドゥルーズ「シネマ2*時間イメージ」

Gilles Deleuze「Cinema2:The Time-Image」


レネの第一の新しさとは、中心あるいは固定点の消失である。死は今の現在を固定しない。それほど多くの死者が過去の諸相に棲息しているのだ。……概して、現在は浮遊し始め、不確定性に襲われ、人物の往来のうちに分散され、あるいはすでに過去によって吸収されている。……過去の諸相の衝突はじかに起こり、おのおのが別の層に対して相対的な現在として働くのである。広島は女にとってヌヴェールの現在であり、ヌヴェールは男にとって広島の現在なのだ。……
……人間にとって過去の瞬間は、いわば一つの層に属する輝点であり、そこから切り離すことはできない。……二人の人物がいる。しかしおのおのがもう一人とは無縁な自分だけの記憶をもっている。もはや共通なものは何もない。あるのはいわば、広島とヌヴェールという過去の通訳不可能な二つの領域である。日本人は女が自分の領域に入ってくるのを拒む(「私はすべて見たわ……すべて……──きみは広島で何も見ていない、何も……」)。それに対し女は、積極的で同調的な男を、ある点まで自分の領域に引き込んでいく。それは彼らにとって、自分だけの記憶を忘れて二人に共通の記憶を作りあげるやり方ではなかったか。あたかも今や記憶そのものが世界になり、彼らの人称から離脱していくかのように。(p.161)


……記憶のあらゆる広がりのむこうには、それらをかきまぜる波の音があり、一つの絶対を形づくる内部のあの死があり、それをまぬかれえたものは、そこから復活するということを理解しなくてはならない。それをまぬかれるもの、復活しえたものは、容赦なく外部の死のほうにむかうのだが、それは絶対のもう一つの面として彼にふりかかってくる。『ジュテーム・ジュテーム』は、彼がそこからもどってくる内部の死と、彼にふりかかってくる外部の死という二つの死を一致させる。『死にいたる愛」は、映画史上最も大胆な映画の一つだと思われるが、それは主人公がそこから蘇生する医学的な死から、彼が行き着く決定的な死に移行する。「少し深いせせらぎ」が二つを隔てているだけだ(最初に医者が誤っていなかったことは明白であって、そのことに錯覚はなかった。外観上の、あるいは医学的な死、脳死があっただけである)。一つの死からもう一つの死に移行するとき、絶対的内部と絶対的外部が接触しあう、過去のあらゆる広がりよりも深い一つの内部と、外的現実のあらゆる層よりも遠くにある一つの外部が。二つの間で、あるいは二つの間隙において、一瞬、頭脳ー世界を満たすのは、ゾンビたちである。(p.289)