ジョルジョ・アガンベン「到来する共同体」

Giorgio Agamben「The Coming Community」


普遍的なものと個別的なもののアンチノミーを逃れているひとつの概念がずっと前からわたしたちによく知られていた。見本[esempio]という概念がそれである。見本がその力を発揮するどんな領域においても、見本の特徴をなしているのは、それが同一のジャンルのすべてのケースに妥当するものであると同時にそれ自体それらのケースのなかに含まれているという事実である。見本は、それ自体が個物のなかのひとつの個物でありながら、他の個物のそれぞれを代表する立場にあって、すべてに妥当する。じっさいにも、一方では、あらゆる見本は実在するひとつの個別として扱われるが、しかしまた他方では、それはその個別性においては妥当しえないものであると了解されつづけている。個別的なものでもなければ、さりとて普遍的なものでもなく、見本はいわば自らをあるがままの姿で見るようにさせ、その個物としてのありようを挙示してみせる特異な対称なのだ。(見本[Esempio]p.17)


アリストテレスによると、あらゆる可能態は二つの様相に分節されるという。これら二つの様相のうち、いまの場合に決定的なのは、彼が《存在しないことの可能性(dymamis me einai)》、あるいは無能力(adynamia)と呼んでいるものである。なぜなら、なんであれかまわない存在がつねに可能態としての性格をもっているというのが真実であるなら、しかしまた、それがあれやこれやの特殊的な行為をなす能力があるにすぎないのでもなければ、能力を欠いていて、単純に何もできないのでもなく、いわんや、全能であってどんなものでも無差別になしうるというのではないことも、同様に確実であるからである。存在しないでいることができる存在、自ら無能力であることができる存在こそ、本来、なんであれかまわない存在なのである。(バートルビー[Bartleby]p.49)


人間にとって最も本来的なありようは自らの可能性ないし可能態であることなのだから、そのときには、そしてこの理由でのみ(……人間の最も本来的なありようは根拠を剥奪されていて、……)、人間は負債を抱えこんでいることとなる。……なんらかの罪になる行為を犯してしまう前からすでにつねに良心の疚しさを感じているのである。……ところが、道徳はこの教理を人間が犯すかもしれない罪ある行為と関係させて解釈する。……人間は自分に欠如しているもののために、自分が犯さなかった罪のために、罪ある存在なのである。(倫理[Etica]p.59)


「涜神」と同じく上村忠男訳・月曜者刊で似た体裁の本。今まで彼の著作を読んでいて心に留めていたことを改めて思い返す。