ジョルジョ・アガンベン「裸性」

Giorgio Agamben「Nudities」


検察官の職権が限定的であった古代ローマの裁判において、中傷=誣告[虚偽の事実を言い立てて、他人を罪に陥れる犯罪]は司法機関にとってきわめて重大な脅威であり、偽証をした告発者は額にKの文字の焼印を捺され罰せられたほどであった。(Kとは、誣告者[Kalumniator]の頭文字である)。カフカの『訴訟』を解釈するうえで、この事実が重要であるということは、ダヴィデ・スティミッリによって明らかにされた。『訴訟』は冒頭から、何の留保もなしに、中傷的な訴訟の場面ではじまるのである(「誰かがヨーゼフ・Kを中傷したにちがいなかった。悪いこともしていないのに、ある朝、逮捕されたのだ」)。Kという文字は、マックス・ブロートに端を発する一般的な見解によれば、カフカの頭文字である。しかし、スティミッリが示すところによるならば、Kとはカフカが司法関係の職につく準備をしているあいだにローマ法の勉強をしていたことを思い起こさせる文字であり、中傷=誣告を指すのである。(p.39)
あらゆる人間は、自分自身にたいして中傷的な訴訟を提訴している。これこそまさに、カフカの出発点である。だからこそ、カフカの世界はけっして悲劇にはなりえず、喜劇としてしか成立しない。罪は存在していない。あるいはむしろ、唯一の罪とは自己誣告であり、存在しない罪をみずから告白することによって、この罪は成立しているのである(存在しない罪を自白するとはすなわち、みずからの無実を告白することであり、それゆえこれはまぎれもなく喜劇的な身振りである)。
このことは、カフカが別の箇所で表明していた考えとも合致している。いわく、「原罪、すなわち人類が犯した太古の過ちは、人類が引き起こした告訴、取り下げることをしなかった告訴によって成り立っている。というのも、迷惑をこうむったのは人類であり、原罪とは人類にたいしてなされた過ちなのだから」。ここでも、自己誣告と同様に、罪は告訴の原因ではなく、告訴と一体化している。(p.41)


「罪を犯すまえは、実際のところ、聖書にも書かれているとおり「男とその妻は二人とも裸でいて、恥を感じなかった」。それは、二人に自分たちの裸が見えていなかったからではなく、裸がいまだ恥ずべきものではなかったからである。というのも、欲情[libido]が意に反して二人の器官を動揺させることはなかったのだから。[……]二人の目は開かれていたが、恩寵の衣服のもと何が二人に授けられていたのかを知るほどには、開かれていなかった。なぜなら、意志にたいする器官の反乱を二人は知らなかったからである。ひとたびこの恩寵が失われるや、罪にふさわしい二人の不服従を罰するために、肉体の衝動のなかに新たな淫らさが突如として発生した。このために二人の裸は恥ずべきものとなり、二人はそれを意識し、当惑することになったのである」(アウグスティヌス神の国』第14巻17章)(p.113)
「子どものように」。幼児の裸こそ恥を感じる必要のない裸の模範であるという考え方は、たいへん古くから存在し、『トマスによる福音書』のようなグノーシス的テクストのみならず、ユダヤ教キリスト教の資料のうちにも見てとることができる。生殖をとおして原罪が伝えられるとする教義は、当然のことながら子どもの純真さを否定するのだが(それゆえ、新生児の洗礼が実践されるようになったのである)、子どもたちが自分の裸を恥ずかしく感じていないという事実は、キリスト教の伝統においてしばしば、楽園の純真さに引き寄せて捉えられた。(p.120)


もし楽園で罪を犯したことによって恩寵が失われ恥ずべき箇所が身体に発生するならば、それは正に罪を犯すのに用いた、食欲を満たした口だと思うのだが違うんだろうか。
生殖をとおして原罪が伝えられるとするならば、楽園の二人は、原罪を伝えることになる前にすでに生殖器を隠してしまったということになるが、原罪を伝えてしまうことが分かっていたなら、生殖行為をしなければ良かったのではないだろうか、それが恥ずべきものだと分かっていたなら。
以下メモ
悲劇と喜劇について;悲劇は義人の罪深さとして現われ、喜劇は罪深い者の義認として現われることになる。(イタリア的カテゴリー)
収録されている論文は以下
・創造と救済
・同時代人とは何か?
・K
・亡霊にかこまれて生きることの意義と不便さ
・しないでいられることについて
・ペルソナなきアイデンティティ
・裸性
・天の栄光に浴した肉体
・牛のごとき空腹──安息日、祭日、無為をめぐる考察