ジャン・ジュネ「花のノートルダム」

Jean Genet「Our Lady of the Flowers」


かつてディヴィーヌ自身が私に告白したように、私もこう告白することができる。私は微笑みながら、あるいは馬鹿笑いしながら、軽蔑に耐えている。だが、私がこうして自分を地べたよりも低いところに置いているのは、まだ──いつかそうなるというのか?──軽蔑を軽蔑するからではなく、たんに愚かな真似はするまいとの思いからだ。何があっても、誰からも卑しめられまいという思いからなのだ。それ以外、私にはどうしようもなかった。私が、自分は年とったおかまの淫売だと公言すれば、誰もそれ以上の悪口はいえないし、私への罵りの腰を砕くことができる。私の顔に唾を吐くことだってできなくなるだろう。小足のミニョンも同じで、せいぜい私を軽蔑することができるだけだ。(p.131)


もし明日、私が釈放されたらどんなにいいだろう。
(明日は公判だ)
自由になるとは、生ける者たちのあいだで流刑になることだ。私は、自分の住みかの大きさに合わせて自分の魂を作った。私の独房はこんなにも心地よい。自由になるとは、ワインを飲み、煙草を吸い、小市民たちを見ることだ。(p.481)


自分だけが不具だ、自分だけが不適応者だという思いは散々してきたものだが、道外れな精神をどう納得させれば自分の魂は豊かなんだと思えるのか。懐柔させられる気もないしできる人もいないだろう。ふてぶてしさと、身の丈ぶんの誇りはどれだけ長く保てようか。
ずいぶん前に「葬儀」を読んで、その同性愛描写に感銘を受けたのをよく憶えている。ドイツ軍によるパリ占領のさなか、薔薇色の頬をした初々しいフランス少年が、逞しいドイツ将校に憧れるあまり自分の尻を差し出す、というような禁断に禁断を重ねた場面だったと思うが(もはやうろ覚えだが)、うぶで純粋な少年と剛毅な軍人との対比や、かまを掘られる側のいじらしい感じが、聖ジュネさすがは自ら男娼であった。
ジュネが獄中で、ディヴィーヌや彼女の住む屋根裏部屋に居候した「花の聖母」やミニョンらのことを回想し、さらには獄中仲間も一緒くたにして不可解な世界をつくりあげる。窃盗や男色や殺人、その手管に神々しさや純潔さが宿り、老いさらばえたおかまディヴィーヌ(とはいっても30歳過ぎって…)がかわいらしく見えるのは本当に奇跡。


ある無頼漢がディヴィーヌにこういった。
「どっちがいい?かまを掘られるのと、尺八させられるのと?」
食いしん坊のディヴィーヌは、真剣になって、両手をあわせ、口をとがらせていった。
「お願いだから、両方とも」(p.501解説)