ジル・ドゥルーズ「シネマ2*時間イメージ」

Gilles Deleuze「Cinema2:The Time-Image」


レネの第一の新しさとは、中心あるいは固定点の消失である。死は今の現在を固定しない。それほど多くの死者が過去の諸相に棲息しているのだ。……概して、現在は浮遊し始め、不確定性に襲われ、人物の往来のうちに分散され、あるいはすでに過去によって吸収されている。……過去の諸相の衝突はじかに起こり、おのおのが別の層に対して相対的な現在として働くのである。広島は女にとってヌヴェールの現在であり、ヌヴェールは男にとって広島の現在なのだ。……
……人間にとって過去の瞬間は、いわば一つの層に属する輝点であり、そこから切り離すことはできない。……二人の人物がいる。しかしおのおのがもう一人とは無縁な自分だけの記憶をもっている。もはや共通なものは何もない。あるのはいわば、広島とヌヴェールという過去の通訳不可能な二つの領域である。日本人は女が自分の領域に入ってくるのを拒む(「私はすべて見たわ……すべて……──きみは広島で何も見ていない、何も……」)。それに対し女は、積極的で同調的な男を、ある点まで自分の領域に引き込んでいく。それは彼らにとって、自分だけの記憶を忘れて二人に共通の記憶を作りあげるやり方ではなかったか。あたかも今や記憶そのものが世界になり、彼らの人称から離脱していくかのように。(p.161)


……記憶のあらゆる広がりのむこうには、それらをかきまぜる波の音があり、一つの絶対を形づくる内部のあの死があり、それをまぬかれえたものは、そこから復活するということを理解しなくてはならない。それをまぬかれるもの、復活しえたものは、容赦なく外部の死のほうにむかうのだが、それは絶対のもう一つの面として彼にふりかかってくる。『ジュテーム・ジュテーム』は、彼がそこからもどってくる内部の死と、彼にふりかかってくる外部の死という二つの死を一致させる。『死にいたる愛」は、映画史上最も大胆な映画の一つだと思われるが、それは主人公がそこから蘇生する医学的な死から、彼が行き着く決定的な死に移行する。「少し深いせせらぎ」が二つを隔てているだけだ(最初に医者が誤っていなかったことは明白であって、そのことに錯覚はなかった。外観上の、あるいは医学的な死、脳死があっただけである)。一つの死からもう一つの死に移行するとき、絶対的内部と絶対的外部が接触しあう、過去のあらゆる広がりよりも深い一つの内部と、外的現実のあらゆる層よりも遠くにある一つの外部が。二つの間で、あるいは二つの間隙において、一瞬、頭脳ー世界を満たすのは、ゾンビたちである。(p.289)