レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」

Raymond Chandler「The Long Goodbye」


「結婚のプレゼントか」
「ショー・ウィンドーで見つけたから買ったのといった具合のね。ぼくは何も不足のない人間なのさ」
「すてきな車だ。値段は聞きたくないがね」
彼はちらっと私の方を見て、ぬれた舗道に視線をもどした。二本のワイパーが小さなフロント・ガラスにしずかな音を立てていた。
「ぼくが幸福じゃないと思ってるんだね」
「すまん。よけいなことをいった」
「金があるんだ。だれが幸福になりたいなんて思うもんか」彼の言葉に私にははじめての自嘲が感じられた。
……
「撮影所でよくいうじゃないか──大作だが、ストーリーがないって。シルヴィアは幸福にちがいないが、ぼくといっしょでなくたっていいんだ。われわれの社会では、どっちみち、そんなことは重要じゃない。働かないでよくて、金に糸目をつけないとなると、することはいくらでもある。ほんとはちっとも楽しくないはずなんだが、金があるとそれに気がつかない。ほんとの楽しみなんて知らないんだ。彼らが熱をあげてほしがるものといえば他人の女房ぐらいのものだが、それもたとえば、水道工夫の細君が居間に新しいカーテンをほしがる気持とくらべれば、じつにあっさりしたものなんだ」(p.27)


私たちは別れの挨拶をかわした。車が角をまがるのを見送ってから、階段をのぼって、すぐ寝室へ行き、ベッドをつくりなおした。枕の上にまっくろな長い髪が一本残っていた。腹の底に鉛のかたまりをのみこんだような気持だった。
こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった。
さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。(p.515)


ギムレットには早すぎる、I suppose it's a bit too early for a gimlet、の示唆するところを抜き書きしておく。これから読もうと思うなら、以下はその後で読んでほしい。ギムレットは、マーロウがこれから訃報を聞くことになる友人が、姿を消したさいにしたためた手紙にて指定した服喪の儀式だった。


……だから事件についてもぼくについても忘れてくれたまえ。だが、そのまえに、ぼくのために<ヴィクター>でギムレットを飲んでほしい。……それから、すべてを忘れてもらうんだ。テリー・レノックスのすべてを。では、さよなら。(p.118)


彼は手を顔にあげて、色眼鏡をはずした。人間の眼の色はだれにも変えることができない。
ギムレットにはまだ早すぎるね」と、彼はいった。(p.529)