パウロ・コエーリョ「悪魔とプリン嬢」

Paulo Coelho「The Devil and Miss Prym」


「君や君の町がどうということではない、私は自分のことしか考えていない──ひとりの人間の物語はすべての人間の物語なんだ。人間が善なのか悪なのか、私は知りたい。善なのであれば、神は公正だったということになる。ならば、私のしたことをすべて許してくれるだろう、私のことを挫こうとした人たちの身に不幸が起こってほしいと私が望んだことや、重大な瞬間に私が犯した間違った決定や、今こうして君に提示している提案を、いずれも許してくれるはずだ──というのも、この暗黒の側へと私を押しやったのは神自身だったのだから。
もし人間が悪だということなら──そうなったらすべてが許されていることになり、私は一度も間違った決定をしなかったことになり、われわれ人類は罪人となることが定められており、ならばこの人生で何をしようと大して変わらないことになる。なぜなら、救いは人間の思考や行動を超越した出来事だということになるからだ。」(p.29)


旅人が寒村に訪れて、金を掛けて村人に人殺しを仄めかす。善悪いずれが勝つか。
というのが筋書き。何て言うか、いい設定だしいい結論だしいい思想だと思ったのだが、なんでこんなに雄弁に書いちゃうんだろうというのが率直な感想。旅人もプリン嬢も自分の思想を語り過ぎて、読み手に含みを与えず、そのせいで読後感はするりと抜け落ちた。一瞬ジュブナイルかとも考えたが、そうするにはプリン嬢がやや汚れなんですよね…。
「ベロニカは死ぬことにした」が映像化されたし原作者として知ってはいたが、そもそも今回手にとったのは、1年前に欧州山間の都市グラーツを訪れたときに、現地書店でのフィクション売上1位がコエーリョだったのに驚いたからだ。ドイツ語圏で南米作家が1位だなんて普遍性の賜物だなと。通時性より共時性を生きる読書子としては読まずにはおれません。でもコエーリョを世界的に広めたのは、普遍性ではなく雄弁さなのかもしれない。
コエーリョは専ら信仰者の立場から語っているけれど、善だの悪だの神だのを扱うにしても、信仰からは距離をとった問いの立て方というのは必ずできる。上記の抜粋は、「人間の生は悲劇か喜劇か」と言ってもいいのか。2011.1.23memo参照。正直、アガンベンの神学は理解に困難が多いので、症例という形で役に立ちそうだ。


雄弁な語りの中から、覚え書きを一つ、こういう人が多いので私は日頃やりにくい;
思いやりのある人間という役割を演じるのは、人生において決然とした態度をとるのを恐れている人たちのやることなのだ。(p.57)