クロード・レヴィ=ストロース「野生の思考」

Claude Lévi-Strauss「The Savage Mind」


フランス語の原題は「La pensée sauvage」、penséeは草花のパンジーと思惟思考の両方を意味するのだそうだ。この本がはじめて出版された1962年当時はまだ、オーストラリアやアメリカの先住民族に対する視線には偏見が多く、彼らは「野蛮な思考」しか持ち合わせていないと思われていた。しかしレヴィ=ストロースは、まだ品種改良を受けずにいて園芸品種となる前の「野生のパンジー」のようなもの、西欧文明的な「栽培の思考/La pensée cultivée」ではなく「野生の思考」を彼らは持っていると考えた。そして彼は、栽培種が野生種を駆逐してしまうことを恐れていた。
本書では、主にオーストラリア先住民族に見られる慣習や儀式が題材に選ばれている。自然と人間のそれぞれの図式の相関性を明らかにして、それを根拠にすれば、一見風変わりな禁忌についても実に論理的な構造を持つことがわかる。野蛮人とみなされていた彼らに精緻な論理があること、彼らは西欧文明にとって外部ではなく原型なのだということ、それを後に「構造主義」とカテゴリされるような汎用性の高い視点で暴いたことは、かなり衝撃的だったに違いない。どんな思想で貫かれた論なのか既に知っている現在においてでさえも、先住民族の風俗の実例が累々と連なるなかで、それらを西洋哲学の用語によって鮮やかに説明した一文が挿入されているさまは、意表をついた展開に見える。
最終章でサルトル批判を展開したことが、この本をより衝撃的にしたらしい。彼らは雑誌「レ・タン・モデルヌ」の同志だったが、サルトルの周囲の若い知識人たちがレヴィ=ストロースの思想を積極的に吸収していくことに危機感をいだき、彼が「弁証法的理性批判」において反人類学、反構造主義を標榜したことが論争の発端だと推測されるのだそうだ。レヴィ=ストロースの反論は例えばこのように、「身の毛のよだつ思い」とは手厳しい。


……言語は、古い文法家の分析的理性の中にあるのでもなければ、構造言語学の構成された弁証法の中にもなく、実践的惰性態にぶつかる個人的実践の構成する弁証法の中にあるのでもない。この三者はいずれも、言語の存在を前提として成り立つものであるから。言語学はわれわれに、弁証法的で全体化性をもつが意識や意志の外(もしくは下)にある存在 [言語をさす] を見せてくれる。非反省的全体化である言語は、独自の原理をもっていて人間が知らぬ人間的理性である。……
「私のための歴史」の主観性が「われわれのための歴史」の客観性にその場所を譲りうるものであるとしても、その私をわれわれに転換しうるためには、そのわれわれは私の自乗でしかあり得ず、それ自体が他のわれわれに対しては完全に閉ざされている。こうして、自我と他者の解き難い対立を克服したという幻想をうるために、その代償として、形而上学上の「他者」の役割を歴史意識によってパプア人に押しつけることが行なわれる。パプア人を哲学的食欲を満たすためだけの手段の立場に落すことによって、歴史的理性は一種の知的食人を実行しているのである。民族誌を研究する者にとってこの食人は身の毛のよだつ思いのするものである。それは、もう一つの食人をはるかに上まわる。


トーテム表徴というのは端的に言えば、(先住民族については)自然要素の集合からなる体系と、人間の集団社会のなかの体系とを、互いに参照しあうためのコードだ。各個人が、構造上は自分と同等だとみなされる動植物の種族をそれぞれ持っている。そこには、動植物に基づいた命名行為、特定人物の対応する動植物に対する禁忌がある。たとえば、家長的存在の者が自分はヤシに生まれ変わると遺言すると、その一家に限ってはヤシを食することができなくなる。ヤシを食することは家長を食することと同等になってしまうからだ。そして、その一家の娘をめとることになった男性もまた、ヤシを食することができない。精子を通じて禁忌が娘の体内に放出されてしまうからだ。さらに、もしそのヤシの食物禁忌を犯した場合、刑罰として、象徴的あるいは実際の食人を受けることすらありうる。それはまさに、食人には食人を、報復としての刑罰だ。
特定人物がある動植物の種族と同等だとみなした場合、その同定の儀式によってその人物は、仮に死後であったとしても同じ時間内に存在していることになる。人間の血縁集団は世代を経ることによって通時的な繋がりを保つはずなのに、それが共時的な繋がりへと変換されてしまう。そういえば、アガンベンは「幼児期と歴史」において、幼児の遊戯の彼岸として、儀式のもつ性質をうまく言い当てていた。「レヴィ=ストロース儀礼は出来事を構造に変形するのにたいして、遊戯は構造を出来事に変形する、儀礼が通時態を共時態に変形するための機械であるとすれば、逆に、遊戯のほうは共時態を通時態に変形するための機械である。つまり、儀礼は聖なる時間の模倣と繰り返しを行い、神の時空間をいまここにも体現するが、遊戯は、聖なる対象や言葉を用いるけれど、意味と目的は忘却してしまい、神の時空間からは解放されている。(2008.09.07memo)」
神によりそうために儀礼はとてもうまい機能の仕方をしている。エリアーデは祖型反復(神の時空間の模倣と繰り返し、都市計画や建造物の位置決めや暦通りの祝祭など)による生の意義付けについて述べたことがあった。レヴィ=ストロースはさらに、神と人間をとりむすぶための供犠についても、突っ込んだ考察をしている。


供犠の場合、自然種の系列は、供犠執行者と神という二極項間の仲介者の役割を果たす。この両項の間には、はじめは相同性どころか、いかなる関係も存在しない。供犠の目的はまさに関係の設定であり、その関係は類似性の関係ではなくて隣接性の関係である。……犠牲の神聖化によって人間と神との間に関係が確立されると、そのつぎに供犠の儀礼はその同じ犠牲を破壊することによって関係を断ち切るのである。……ところが人間は前もって人間の側の貯蔵タンクと神の側の貯蔵タンクとの間を導管でつないでおいたのであるから、神の貯蔵タンクの方が自動的に空所を埋めて、人間があてにしている恵みを施すことになるはずである。供犠を図式化すれば、非可逆的操作(犠牲の破壊)によって、別の面において同じく非可逆的な操作(神の恵み)をひきおこすことである。第二の操作が起こる必然性は、同じ高さにない二つの「容器」を導管でつないでおいたことによって生ずる。……供犠の目的は、遠くの神による人間の願望の充足を求めることである。


以下はメモ。
トーテミズムが、名称や禁忌を共にする人間同士の婚姻禁止、すなわち外婚制を採用していることについては、もう少し読み込まないとよく分からないなと思った。内婚制を原則とするカーストとの比較論:「カーストは文化的モデルによって規定され、文化的物品を実際に交換する。ところが自然と文化の間に考えている相称性のために、カーストが生物としての人間で構成されているかぎり、その自然的産物を自然のモデルによって考えなければならない。自然的産物とは女性である。生物としての人間はそれを作り出し、またそれに作られる。」カーストは、職種による分類が優勢という含意をしていることに注意。