ジョルジョ・アガンベン「王国と栄光ーオイコノミアと統治の神学的系譜学のために」

Giorgio Agamben「Regno e la Gloria: Per una genealogia teologica dell'economia e del governo」


権威と権力の根拠について,。読み終わってしばらく経った今この本の内容を自分のことばで概括すると、そういう単語が浮かんでくる。
君主(権威)と為政者(権力)とが近代においては完全に分離されていて、それと同等の性質が教会的な支配にも見られたのだとアガンベンは語っていた。


だが、存在の平面において教父たちが何としてでも避けたいと思っていた分断は、神と神の行動のあいだ、存在論と実践のあいだの分裂としてふたたび現れる。というのも、神の実体ないし本性を神のオイコノミアから区別するというのは、神において存在と行動を分離するということに等しいからである。(p.112)
…仮に神において存在と意志が同じ一つのものだとすると、神は──多くの物事を欲するから──あるときはこれこれのもの、またあるときは別のしかじかのものだということになるが、そのようなことは不可能である。神の存在は必然であるが、仮にそれゆえに神が自らの存在によって物事を生み出すとすると、神は自らがなすことを強制されているということになり、神による創造は自由なものではなくなってしまう。……神が世界を創造したのは自らの本性の必然性や自らの存在の必然性によってではなく、神自身がそのように欲したからである。「なぜ神は天と地を作ったのか?」という問いに対して、アウグスティヌスは「神がそう欲した(quia voluit)からである」と回答している。……つまり意志とは、神において互いに分割されていた存在と行動を文節化してまとめるべく設けられている装置なのである。マルティン・ハイデガーによれば、意志の優位は西洋形而上学の歴史を支配し、F.W.シェリングフリードリヒ・ニーチェと共に完了に達する……(p.118)
フーコーは、統治技術の起源はキリスト教的司牧、「霊魂の統治(regimen animarum)」であるとしている。……司牧の本質的性格の一つは、個別の人にも全体にも関わるということ、人間たちの管理が「全体にかつ個別に(omnes et singulatim)」なされるということである。この二重分節化こそが近代国家の統治活動へと伝達される。……フーコーによれば、司牧と人間たちの統治とに共通するまた別の特徴として「オイコノミア」という理念がある。すなわち、諸個人や物事や富に関して、家族モデルにもとづいて秩序づけられる経営という理念である。……統治とは「オイコノミア(経済)という形で権力を行使する術」にほかならないのであって、教会的司牧と政治的統治はいずれも、実体的にオイコノミア的なパラダイムの内部に位置している。(p.215)
なぜ権力は無為と栄光とを必要とするのか?権力は自らの統治装置の空虚な中心に無為と栄光を何としてでも書きこまなければならないが、無為と栄光において何がそれほど本質的だというのか?権力は何を栄養としているのか?……スピノザは、いわば働き自体に対して内的である無為を「潜勢力の観想」と呼んでいる。その無為は、行動したりなしたりすることができるというそれぞれの潜勢力をすべて働かなくするというところに存している独特な「実践」である。行動することができるという(それ自体の)潜勢力を観想する生は、あらゆる働きにおいて自らを働かなくし、(それ自体が)生きることができるということだけを生きる。私たちは「それ自体の」「それ自体が」をカッコに入れて書いている。というのも、個々の特有の「働き(energeia)」を働かなくする潜勢力の構想によってはじめて、「自らの」「それ自体が」といった経験のようなものが可能になるからである。自体とは、主体性とは、あらゆる働きにおいて中心をなす無為として開かれる当のもののこと、あらゆる生のもつ、生きることができるということとして開かれる当のもののことである。……(p.463〜p.470)


彼がバートルビー論で述べていた神学論を、政治にも適用させたということだろうか。
理解がどうしても混迷してしまうのは、いま私がいるこの世界では民主主義が台頭し、「栄光」ないし権威というものが、主権者たる国民にあるのか、由緒ただしき国王にあるのか、いまひとつ判然としないからだ。論の流れからすれば国王のことだが、民主主義のなかでは、本来ならば絶対的な権威を持つはずの国王がそもそも主権者じゃない。なんとか国王を権威たるものにしているのは、宗教的儀式に依存するところが多いようにと思う。彼だけが執り行うことのできる儀式。日本で宗教色を最も豊かにアピールしているのは、そういえば天皇だ……権威が宗教に隣接していることを思う。そしてアメリカのように国王不在の国における権威というのもやっぱり必要で、それの一部分をキリスト教が担っていると思う。大統領就任における宣誓に聖書を使うなんて、なんでそんな特定の宗教に頼ってるのよありえん、と思うが、ああそれが日本では天皇の国事行為なんだ。権威が権力に対して与えうる行為というのは、どんな国体でもある程度共通してるんだね。


……面白いことに、この永遠の監獄統治、贖罪のない刑務所には、予期せぬどんでん返しがある。福者のありように関してトマスの立てている問いのなかに、「福者は地獄に落ちた者たちの刑罰を見ることになるか(Utrum beati qui erunt in patria, visuri sint poena damnatorum)」というものがある。……トマスは次のように無条件に断言している。いわく、「聖徒たちが至福をより喜べるように……彼らには、不信心な者たちに下される刑罰を完全に見ることが許されている」。それだけではない。この残忍なスペクタクルに対しては、福者たちも、彼らとともにこのスペクタクルを観想している天使たちも、共苦を覚えることはできず、喜んで享受することしかできないとされている。というのも、地獄に落ちた者たちに対する刑罰は神の正義の永遠の秩序の表現だからである(……)。
ミシェル・フーコーは、「体刑の輝き」がアンシアン・レジームの権力と結びついているということを示したが、この「体刑の輝き」の永遠の根はここにある。(p.311)


2006年の年末に現職のイラク大統領が処刑されたときのことを思い出した。こんなときにメモを採っていると便利だ。「……諸悪の根源として十分に民衆に想定せしめてからの処刑(←森達也はこれを仮想敵と呼ぶ)、旧体制下では認められていた施政を新体制において遡及し新しい法 を適用して処罰すること、あるいは政治的意図、これらが人ひとりの死刑に込められた。極刑であることとそれが死刑であること、この差はやはり大きい。特に 今回の死刑は祝祭的な意義すら帯びているようで、そのことが中世における革命での断頭台 のようなアナクロニックな祭典を思い起こさせる。でも実は、それが民衆に与える効果というのがその後の統治にとって良い可能性もある、カタルシスを生んで いるかもしれなくて、こういう類いの死刑は他とは切り分けて考えないといけないのだろうか?……」
日本で犯罪者の死刑が公開されることになったら、と想像してみる、一種の祭典つまり民衆の気分を高揚させるようなものに進化するだろう。被害者遺族の懲罰感情を満足させるにとどまらず、その犯罪に関係のない人たちにも一種の快感を与えるのではないだろうか。
特に年配の方たちのあいだで勧善懲悪のドラマがもてはやされるけれど、あれは悪を懲らしめるんじゃなくはっきりと悪人を懲らしめている。罪を憎んで人を憎まずという方針はどうしたよ?フーコー以降の時代には悪人なんていなくって、人間の異常な状態として悪が定義されているんじゃなかったっけ?とは言っても多彩な経験を積んだ者達が勧善懲悪を好むのは、現実もそうであってくれたほうが感情的に助かる、楽できるからかもしれない。明快な悪人をつくって胸のすくような懲罰を与えることが、現実にもできたらいいのにね。死刑を公開したら叶いそうだけど、でも多分そのやり方は前時代的すぎるのだ。悪という状態は一種の病気だから、根っから悪い人なんていないから、殺して終わりじゃ問題なのだ、少なくとも、現代的な倫理感覚ではね。
でも……、ドゥルーズが言うように為政者の法が倫理をつくり民衆を規定するのだとしたら、悪の定義に終止している現在の法じゃ、性悪な人間しか生まれないような気もするなあ定義的に。私自身も悪いこと思いつくとぞくぞくする。誰かが押し付けたくだらない倫理を破るだけでなんだか楽しいなんて、まあ何てチープなことだ、倫理というものは奴の与えた粋なおせっかいなのだと感謝してもいいかもしれないね。