舞城王太郎「獣の樹」



物語では、主人公ナルオの立派なたてがみが、彼が馬の子供であるという自覚を失った途端に剥がれ落ちてしまった。その背中の真皮組織の赤い水脹れを想像した。
その晩、わが畏友の焼けただれた背中を夢に見た。彼は、他の人の背中がそうでないのを羨んでいた。彼の背中から何が焼け落ちてしまったんだろう(と私は夢の中で想定したんだろう)、たてがみか或いは美しい枝だったろうか。いずれにせよそれを焼いたのは彼自身だったが、彼は自分の醜い背中を、首を捩ってしきりに眺めていた。
ナルオは水脹れした自分の背中を全肯定することができたが、喪失した以前の自分に対して名残りを残さずに現状を肯定するのは、あまりにも健全すぎてそうやすやすと出来ることじゃない。そうしていいのかどうかも分からないまま、少しずつ、喪失を取り戻せなくなる位置まで、現状を肯定せざるを得ない位置まで、みんな押し流されているんじゃないだろうか。