ジョルジョ・アガンベン「思考の潜勢力」

Giorgio Agamben「La potenza del pensiero: Saggi e cinferenze」


意味をはっきり知ることのないままに馴染んだ言葉や物語があって、大人になってからその意味するところを聞いた途端、不気味になって使用するのをためらうことがある。たとえば童話とか童謡。わたしの世代はまだ「かごめかごめ」を歌って遊んでいたけれど、あの歌の恐ろしい解釈がいくつもいくつも出てくるのは、童話や童謡といったものが実は残酷さを秘めていると知ったときの恐怖心からだと思う。幼児の遊戯と大人たちの儀礼を的確に比較したのはアガンベンだった。「儀礼は聖なる時間の模倣と繰り返しを行い、神の時空間をいまここにも体現するが、遊戯は、聖なる対象や言葉を用いるけれど、意味と目的は忘却してしまい、神の時空間からは解放されている。」
意味と目的の忘却、これは例えばカフカの「審判(訴訟)」で表現されている。主人公K(=Kafka、「変身」ではSamsa)はある日突然訴えられ訴訟沙汰は延々と続くが、最後の最後まで、自分がどうして訴えられたのかを知ることがなかった。誰も彼にそれを伝えなかった。彼は法廷に赴いたときに、机の上に置かれた法律集をのぞいていたが、内容は卑猥なものでしかなかった。カフカの小説は寓話性にあふれているけれど(寓話的な人物を挿入したりするけれど)、あの寓話性は、意味や目的をなしにした世界を構築するために、必要な手続きだったんだと思う。特に「訴訟」に関する限りでは、Kの罪の内容がまったく考慮されていないという事実が、フーコーが看破した現代の罪と罰の体系によく合致しているような気もしてくる。つまり、罪の内容なんて最初からどうでもよかったんだと。刑法は基本的に矯正であり罪の内容を問わない。殺人でも詐欺でも、罪の目方だけを図って同じ罰を適用する。つまり、目には目を、の時代はとっくに終了していたんだ。罪と罰とのあいだに相関関係はない。いや、罰というのは正しくなくて、あれは罰ではなくて矯正にすぎない。たとえば殺人罪に対して死刑を適用するのが罰で、終身刑を適用するのが矯正だ。前に(調べると、2007.8.8に)、死刑制度の気味悪さについて考えたことがあったけれど、その気味悪さの正体が今はっきりした。わたしはすっかりフーコー的な身体になってしまっているから、犯罪者本人への矯正を伴わない、ただの懲罰を気味悪く思ってしまうんだ。(フーコーは監獄=刑務所を矯正施設とみなしている。)
ただし、そうだとすればどうしてKは最後に処刑されたのだろう?しかも犬死(処刑のさいに「犬のようだ!」と叫んだ)、誰かへの見せしめ=抑止力という効果をまったく持たない方法でだった。カフカの世界では、その世界を統べる法に適合できなくなった脱落者には最後に犬死が待ち構えている。カフカの法は読者に対しても示されることはなく、意味のわからないものに従わされるが従わなければ死が待っている、という経験を読者に植え付ける。


ショーレムカフカの小説、とくに『審判』における法との関係を「啓示の無(Nichts der Offenbarung)」と定義している。この表現は次のような意味であるとされる。「啓示が意味のないものとして現れているが、いまだに自らを主張しているという状態、効力をもっているが意味してはいない(sie gilt, aber nicht bedeutet)状態である。そこでは意味の充溢がなくなっており、姿を現しているものは自体的内容のゼロ点へと縮減されているも同然であるが、消え去ってはいない」。ショーレムはさらに次のように書いている。このような条件下にある法は「不在ではなく施行不可能である」。「カフカ論の最後できみ(ベンヤミン)が語っている学生たちは、聖典を失った学生なのではなく、聖典を解読できない学生である」。(p.320)


……犠牲が殺害を含むのは、生と死が人間にとって最も聖なるものだからではない。その反対であって、生と死が最も聖なるものになったのは、犠牲が殺害を含んでいたからである。(……)あらゆる人間のおこないは本性からして根拠をもたない。そうである以上、それは自体的な根拠を自分から措定しなければならない。そのようなものである人間のおこないは、犠牲に関する神話素によるなら暴力的なものである(……)。この聖なる暴力(つまり暴力自体へと遺棄されている暴力)こそ、犠牲が犠牲の自体的構造において反復し規則化すべく引き受けている当のものである。(p.237)
この男に対して、いささかでも好感を抱いている者など一人もいない。この男は避けるべき、疑うべき、嫌悪すべき対象だった。ところが今や、この男の中の生の火花が奇妙にも彼自身っから分離できるものとなり、彼らはその火花に深い関心を寄せている。それはおそらく、それが生だからである。彼らは生きており、死ななければならないのだから。
見よ!生のしるしを!疑うべくもない生のしるしである!この火花はくすぶって消えてしまうかもしれないし、光を放って燃え広がるかもしれない。とはいえ見よ!それを見ている粗野な奴らが四人、涙を流している。俗世のライダーフッドも来世のライダーフッドも、彼らから涙を落とさせることはできないだろう。だが、俗世と来世のあいだでやっきになっている人間の魂にはそのようなことも容易である。(p.478、チャールズ・ディケンズ、「我らが共通の友」)


人の生死を司ることは最高権力者の持てる権限で、今は国家がそれを掌中にしている。つまり、合法的な殺人方法を持っているのは国家だけだ。彼は、殺人を悪だと定めた法を流布させたことによって、倫理的に民衆をがんじがらめにしてしまった。各々の内面にひそんでいるらしい悪を自己努力で調伏すべきだと思いこませたのだから、実際に治安維持部隊をつくるよりは、はるかに省力化がはかれている。
だが、彼が生殺与奪権をそこまで重要視したのはどうしてなんだろう?
殺人はどうして悪なの?という素朴な質問に答えてみる、って本が数年前に話題になってたなと思い出す。殺人が悪であるのは法がそう定めているからだ、法がそう定めた瞬間から殺人は悪だという倫理が生まれてしまったんだ、と断言してみせるのは簡単だ。でもそれだけじゃ、じゃあどうして殺人をそんなものに仕立て上げたのかが曖昧なまま残される。
アガンベンはその質問にヒントを与えてくれている。たぶん、国家の執り行う特別な儀礼には殺人が含まれるから、それゆえ殺人は民衆には許されない特殊な行為であると見做させて、国家の超越化を図ったんじゃないかという気がする。……なんてのは、アガンベンの次の邦訳本「王国と栄光」を読んでるからついつい考えてしまうことだ。この本には彼の長年の思考が寄せ集められているが、美学から政治学におよんで猛烈な博覧強記ぶりを見せつけている。その一方で、視座がぜんぜんぶれていないのが面白いけど。