ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」

Ludwig Wittgenstein「Tractatus」


ストーンボローStonborough邸の街区をぐるりと巡った。IN ADVANCE RESERVATIONだなんて、ドイツ語オンリーのウェブサイトじゃなかなか気がつかないよね?と、同類とおぼしき旅行者を目で追いかけた。まあこんなものだ、もともといろいろ考えるきっかけが欲しかっただけだから、経験のとりこぼしを補うだけのことを考えられればいいんじゃない。


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3   事実の論理像が思考である。
3.001「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない。
3.01 真なる思考の総体が世界の像である。
3.02 思考は、思考される状況が可能であることを含んでいる。思考しうることはまた可能なことでもある。
3.03 非論理的なものなど、考えることはできない。なぜなら、それができると言うのであれば、そのときわれわれは非論理的に思考しなければならなくなるからである。
……


任意のページを抜粋しただけだが、論の進行と章立てがきれいに整序されているのがわかる。命題→解題→演繹→展開→待遇→…だろうか?
ほかの哲学書を読むときでもこういう理路整然とした進行は当たり前だし、それこそが西洋哲学の伝統的美しさだと思う。でも、それがどのように進行しているのか、論理的にどう接続されているのかを意識的にするのは特殊で、特に彼は、論理に乗らない部分を徹底的にそぎ落としている。接続詞や要約文がきわめて少ない。
言語を使って思考をしているという前提が崩れない限りは、その言語をどう扱うか、言語について言語で語るということについて意識的になるのは重要なことなんだ。記号論理学ってそういえば以前勉強したよねしかも翻訳者の野矢の講義でねと思うけど、言語論をさほど読んではいないと思われる学部生がこの学問で感じ取れるのは、哲学と数学とが接合した目新しさとか、そんなものにすぎなかったように思う。この本のなかには数式が出てくるけれど、言語における論理記述はどの程度、実際の数式で置換可能なんだろうか、それともその範囲は日々拡張されているんだろうか?数学の発展とともに?「わたしはあなたをニカと名付ける」のような行為遂行をともなう文言すらも可能なのだろうか?
思考形式を数式で表現することによって構造をあぶりだす、という手法には、数学が哲学よりもより根源的な部分に属しているという発想が見え隠れしてしまって、そりゃ違うだろうとあわてて否定する。ウィトゲンシュタインは最後に、「7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」と語ってペンを置いた。語りえぬ、として彼が沈黙してしまった部分を、ほぼ同時期にフロイトはぐんぐんと押し広げたが、医学者フロイトをよく後継したのは哲学者たちだった。あんなにも胡散臭い世界に果敢に切り込んだのは本当に凄いことだ。数学は彼らに追いつくことができているのだろうか?
わたしがよくわからないのは、ウィトゲンシュタインが示したかったのは、哲学の限界なのか、それとも哲学の構造なのか、どちらなんだろうか。