ジャック・ラカン「エクリ2」

Jacques Lacan「Ecrits」


だからこの大きな団体に持続する統一力は、ポーの天才が「ヴァルドマール氏の場合」という怪奇小説でわれわれに考察を求めている、特異な想像力を思わせるのである。
その男は、臨終に際して催眠術をかけられ、死骸を維持したまま死んでいるのであるが、催眠術師の影響力の下で、肉体の腐敗を免れているのみならず、自分の恐ろしい状態を言(パロール)で証言することも可能なのである。
フロイトが創設した学会は、暗喩的に言えば、集団としてこのような状態で生き残っているのである。それを支えているのは声であって、死者からの声である。
なるほどフロイトは遂にわれわれに<エロス>を認めさせるに至った。<エロス>によって生命は、みずからの腐敗に至る猶予の期間、享楽を延長する。
しかしながら、このような症例においては、<師>のことば<mots>をふたたび生かして、<師>の<言(パロール)>を蘇生させる覚醒術は、慎ましい埋葬と合一することになろう。(p.227)


<神>の存在は、これと同じ程度に、その本質において、それを条件づけている空間のなかで絶えずいっそう遠くに退く。これは、その言葉から始まって、早口でわかりにくい発音の韻律にいたるまで、次第に大きくなる弛緩をとおして直観される後退である。それゆえ、この事行の指示を追って行きさえすれば、たとえシュレーバーが、<神>は他のあらゆるやりとりの面から排除されているのをそのうえわれわれに知らせてくれなくとも、われわれは、そこにおいて主体の存在が分節されるこの唯一の<他者>を、とくに言葉のざわめきがそこで湧きあがる場所を空にするのに適したものとして考えることができよう。彼は、言い訳をしながらそれを行っている。しかし、彼がどのような後悔をもとうが、彼はそれを認めなくてはならない。すなわち、<神>は、たんに経験を通さないだけではなく、生きた人間を理解できないのだ。<神>は、それをもっぱら外面的に(これが実際に、<神>の本質的なあり方のようにみえるが)つかんでいる。あらゆる内在性は、それに対して閉されている。行為と思想が保存されている<覚え書の体系>は、たしかに、つかまえにくい方法で、われわれの躾を受けた幼児期の守護天使によって保持されている手帳を呼び戻す。しかし、その向こうに、腰と胸とによるあらゆる測深の跡は消えていることを念頭におかなくてはならない。(p.327)