ジョルジョ・アガンベン「中味のない人間」



著者が28歳のとき出版された論考集。(ってドク論みたいなもんだよなあ。スゴイ。)美学・芸術論がメインで、ニーチェ全般、ヘーゲルの美学講義、ニコマコス倫理学あたりのレファレンスが多いだろうか。さまざまな問題意識が植え付けられた、というレベルの理解だけどひとまず以下にメモ。


・芸術に関して尊ばれるべきは果たして、詩人か詩を批評する人か、創造者か受容者か。
現代においては前者の優位さが保たれているが、「クオ・ワディス」時代においては圧倒的に後者が優位であった(ペトロニウスという人物が「趣味人=芸術の価値を判断する基準を持つ人」として権勢を得ていた)、それは何を端緒に転倒が起こったかに関して。また芸術が芸術家自身の創造性の発露だということに対する懐疑、あるいはカラマーゾフの「大審問官」的状況、至高の顕現は常に否定されねば至高さが保たれないということ。そして否定するのは常に批評家である。
「あらゆる内容から切り離された純粋な創造ー形式原理とは、あらゆる内容を無化し解体することで自己を超越し実現しようとたえずつとめている抽象的な絶対的本質性である。もし、芸術家がある一定の内容や信条のなかに自己確信を探し求めるとすれば、その芸術家は虚構のなかにいる。なぜなら、彼は純粋な芸術的主観性があらゆる事物の本質だということを知っているからだ。しかし、もしこの純粋な芸術的主観性のなかに固有の現実を探し求めるとすれば、まさに非本質的なもののなかに固有の本質を、形式にすぎないもののなかに固有の内容を見つけねばならないというパラドキシカルな状態に陥る。それゆえ、その芸術家が置かれた状態とは根本的な分裂である。そして、この分裂を除いて、彼のなかにあるすべては虚構なのである。」


・芸術や教養に関する倒錯。
優雅なイギリス紳士が敢えて読むスプラッタ・ホラー、ってのと同じで、良い趣味はあまりに洗練され過ぎると、もはや悪趣味なしではいられなくなる。プルーストがインテリについて、「知的になっていくことそのものが、知的でなくていてもいいという権利を生み出す」と述べたのと同じ。キッチュの必要性。
「良い趣味は、その天分に浴した者に芸術作品の美点を知覚させはするが、結局は、その人を芸術作品に無関心にしてしまうか、さもなければ、芸術は、良い趣味という完璧な受容機構のなかにはいりこむや、生気を失ってしまうのに対して、逆に、不完全ではあるがいっそう関心をかきたてられる機構のなかでは、その息吹を保つのである。」


その他
・カント、人工美とは違い自然美には判断基準を必要としない、果たしてこの命題は今後も有効か。
・レディ・メイドが技術的製品の領域から芸術作品の領域へと移行するのに比較し、ポップ・アートは美のステータスから工業製品のステータスに移行するのは、逆方向の異化作用である。
・ポイエーシスとプラクシス(制作と実践)について、マルクス主義的観点から考察。
・人間を、類縁性でのみカテゴリすることの意義、自然科学用語以上のものとしての人類。
ニーチェ、世界が全体としてカオスでしかないということは、彼にとっては、必然性が存在しないというよりは、必然性しか存在しない、ということ。目的も意味もない、このニヒリズム永劫回帰思想へと帰結する。