ジョルジョ・アガンベン「事物のしるし 方法について」
Giorgio Agamben「The Signature of All Things: On Method」
美的判断で考えられる必然性としては、必然性はただ範例のかたちでしか定義されえない。つまり、提示することのできない一般的な規則の範例として見なしうる一つの判断に全員が合意するという必然性としてである。(カント「判断力批判」、本文p.31)
文法が構成され、その規則を考察できるのは、パラダイム的な実践を通してのみ、つまり言語的な範例の提示を通してのみである。とはいえ、文法の実践を定義する言語の使用とはどのようなものなのだろうか。どのようにして、文法の範例は生み出されるのだろうか。……ここで本質的なことは、指示と通常の使用の宙吊りである。かりに言語学者が遂行動詞のクラスを定義する規則を説明するために「わたしは誓う」という範例を口にしたとしても、この語句が実際の誓いの発言として理解されるべきではないことは明白である。つまり、範例の役割をはたすことができるためには、語句は通常の機能を宙吊りにしなければならない。……実のところ、範例が規則から除外されているのは、通常の事例に属していないからではない。むしろ逆に、通常の事例への帰属を提示しているからである。その意味で、範例は例外と対称をなしている。例外が、除外されていることを通して包摂されている一方で、範例は、包摂されていることの提示を通して除外されているのである。(p.36)
記号が意味するのは、しるしを帯びているからなのである。しるしは必然的に記号の解釈をあらかじめ決定し、記号の使用と効力を、規則、実践、戒律に則って配分する。……「知の考古学」でフーコーは、言表のもつ純粋な現実存在としての性格をいくども力説している。……つまり言表は、ある存在者──言語──が生起するという端的な事実である。言表とはしるしであり、それが与えられてあるという純粋な事実によって言語にマークをつけるのである。(p.100)
数ヶ月前に読んだ本。「記号が事実確認的なものであるとすれば、しるしは行為遂行的を含意している」
1年半前にウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読んだときに、「わたしはあなたを・・と名付ける」というような行為遂行動詞は記号で表現できるんだろうか、という疑問を抱いてこの読書メモに残した。それに対して見識ある友人が、教科書に通りだとこう表現できるよ、とメールで教えてくれたことがあった。私もちゃんと調べればよかったなと思う反面、でも本当に引っ掛かっていたのはそういう点ではなかったような気が漠然としていた。
ゴッドファーザー(洗礼儀式での名付け親)のことを思い出すのだが、名付け行為は、言語学的には象徴的なふるまいをする。その発言行為が、彼ら同士の関係を父子であると規定してしまうのだから。
…思考の端緒をたぐりよせたような気はするが、なにぶん記号論も論理哲学も記憶の彼方だ。