ステファヌ・ナドー「アンチ・オイディプスの使用マニュアル」

Stéphane Nadaud「Manuel à l'usage de ceux qui veulent réussir leur (anti)œdipe」


ナドーは、ガタリカフカ夢分析」で編者を務めた人として記憶していた。ポップ心理学popsyを批判した箇所は興味深い社会分析になっている。また「アンチ・オイディプス」については、具体的な事例(特定の家族の相談事例や、三島由紀夫「豊穣の海」の本多など)を引き合いに出していることもあり、サイドリーダーとして良書であるように思う。


注意を一つ。わたしはエディプス/子を男性形でのみ描いてきた。……エディプスはファルス中心的な社会の保証人なのだと。……フロイトとその末裔の精神分析家たち全員のことばを信じれば、……われわれはみな、父を殺し母とのあいだに子をなす、という幻想とともに生きることになる。……この欲望を実現することは、われわれに禁じられている。……規範性とは、われわれにとって実際には不可能なことを欲望することなのだ。この事実を受け入れること、そして、単に実現不可能であるばかりでなく、さらに言えばもっとも大きな、もっとも無意識的な欲望として残り続けるなにかがあり、それは実現不可能だということを受け入れることから、規範性ができあがる。(p.54)


エディプスはスフィンクスに別の答えを出すこともできただろうに、この最後の答えは一にして唯一の答え、つまり一義的な答えだと期待されているのだ。……かれはこう答えるしかない。「人間」と。……エディプスには本当は選択の余地がなかった。ここにエディプス・コンプレックスがある。たくさんの人間が思い付くであろうたくさんの答えに対して、エディプス・コンプレックスは、実在しないひとりの人間が思い付いたただ一つの答えが普遍的なのだ、と強要するのである。エディプスには選択の余地がなかったし、そのことはとても高くつくことになろう。(p.57)


犬死にが存在しないのと同じように、正当な死もない。ただ死があるばかりだ。……ある種の形でそれを賛美することもあれば、他方でそれをおとしめることもあった……自殺は無駄で、戦場での死や日常のなかでの英雄的な死(消防士や警官の「勤務中」の死)は有意義な死であるということが、誰にとっても、あるいはほとんどの人間にとっても自明なことになった。……(多くの「思想家」は、「911事件」ののち「すべての人類が」喪に服したことに感動したものだが、しかし、この付け足された言葉は、人類を人類の一部でしかないものに還元している。……)(p.137)


……この映画の主人公は、落ちないようにするためには走り続ける以外には選択肢を持たない。止まったとしてもかれが落ちない条件がある。それは、自分が大地に支えられていると信じ続けねばならない、というものである。わたしはそれをバッグズ・バニーの公理と呼ぶよう提案したい。実際、かれは止まってもすぐには落ちない。そこに本当に大地があったかのように長いこと「空中に」とどまっていることさえできる──かれにとって、大地は本当に存在しているのだ。一瞬たって、心配になったのか興味が湧いたのか、かれは下を見る。それから落ちるのだ。
……
先にわたしは、公理的なアプローチがプログラムへと通じる、と述べた。それは計測すべき領域の事前決定であり、それについて人は、それが開かれる時点ではまだ認識できていない。……こうしたアプローチ──フーコーの概念を再び用いて言うと、権力として組織化される知の特定の形態を配置することになる、という視点──は確かに失うべきではない。この場合、そういう知はたいてい事前決定され、測量技師にはその領域の「底まで」訪れること以外の選択肢を残さないような、単一の知として登場する。
この領域は、ちょっとはその領域を知っていると思っている人間の眼に、開かれた領域とうつる。というのもそういう人間は、ずっと前からそれを計測していると思っているからだ(あるいは潜在的にもっとも危険なのが、それを完全に知っていると思っている人間の眼にはそう見える、というような場合だ。たとえばバディウの哲学に出てくる存在について、数学者がそうであるような)。主たる危険性は、こうしたアプローチを組織し、カフカ的な苦悩へと至ることがしょっちゅうであるような官僚主義にある。ちょうどK氏のイメージだ。……(p.279)


ノスタルジーの第一の定義……持っていなかったものを失う恐怖という逆説。……本多(「豊穣の海」)は自分が固執している若さを自分が手にしていたことはなかった、という事実を見ようとしない。(p.159)


身体機械の生物学的な生を生きるあいだ、われわれはみな永続し安定した同じ個体であり、資本主義がわれわれに強いる隷従的な主体化のプロセスという、強いられた再個体化があってもそれは変わらない、と思わせるこの幻影……生まれてから死ぬまで同じだと信じている自我……自我はその根底的な現実が無限の再個体化によって作られたものであり、自分はかりそめのものでしかないことを知らない。そして資本主義は、自我がそれに気づかないようにするためならなんでもする。
……セルジュ・ダネー……「ノスタルジーは失われた対象を高く評価するが、メランコリーはこの喪失が現在の影、残った後味であることを知っている」……これはまさに、フロイトが「喪(悲哀)とメランコリー」のなかで分析したこととそっくりだ。この試論でフロイトは、喪とメランコリーの本質的な違いを主張している。……「メランコリーはなんらかの意識されない対象喪失に関連し、失われたものをよく意識している喪とはこの点で区別される」。その理由は簡単だ。実際に理解すべきは、メランコリーの場合、自我それ自身、あるいはより正確には自我の一部分の喪失を受け入れねばならないのに対し、喪の場合、失われた対象が基本的に自我の外部にあるということである。……
……資本主義的な主体化のシステムは、われわれを主体として基礎づけるにしても、そのやり方は特殊なものだ(強いられた再個体化)、ということはこれまで見てきた。したがってわれわれは、資本主義的システムにおける自我は、必然的に主体性が絶えず変化させられる場であることも理解した。しかし、ここが大事なのだが、自我はそのことを自覚していない、なぜなら、さもなくば自我はみずからの統一性を疑うだろうから。(p.186)