ジョルジョ・アガンベン「イタリア的カテゴリー」

Giorgio Agamben「Categorie italiane. Studi di poetica


(「神曲」のイタリア語タイトルを直訳すると「神聖なる喜劇」となるが、)……ある本質的な問題に向かい合う姿勢を示している。つまり、神の正義を前にした人間の有罪と無罪という問題である。ダンテの詩が悲劇ではなく喜劇であるということ、冒頭が「過酷」で「戦慄すべき」もので、結末が「待望される幸福で悦ばしい」ものであるということ、このことが意味しているのは以下の点である。すなわち、神の正義に服従しているという意味で、作品の土台=主題=主体(subiectum)である人間は、始まりでは罪深いものとして現れている(obnoxius iustitie puniendi)が、その巡礼の終わりには無罪であることがわかる(obnoxius iustitie premiandi)ということである。換言するなら「喜劇」であるかぎりこの詩は、罪から無罪への巡礼なのであって、無罪から罪へのそれではない、ということだ。……悲劇は義人の罪深さとして現われ、喜劇は罪深い者の義認として現われることになる。(p.25)


人間がそれまでけっして贖うことのできなかった罪を贖うことで、キリストの受難は、……、自然の罪を人間の贖罪へと、つまり客観的には調停不可能な葛藤をひとりの人間の出来事へと変容させるのである。……、自然の罪と人格の無垢のあいだの葛藤を、自然の無垢と人格の罪のあいだの分裂に逆転させることによって、キリストの死は、人間を悲劇から解き放ち、喜劇を可能ならしめるのである。(p.32)
ダンテが遺産としてイタリア文化に遺したもの、それは、罪のない自然と罪を負った人格へと分裂した人間という被造物の、この「喜劇的」な構想である。(p.45)


恩恵が喪失されるというテーマ……人間の本性には、罪を犯さない(impeccantia)可能性が切り離せないかたち(これに関してアウグスティヌスは「喪失されえない」(inamissibile)という形容詞を案出している)で内在しており、そのため、さらなる恩恵が介入する必要がないのは、人間の本性それ自体が神の恩恵の直接の御業であるからだとされる。アウグスティヌスはいつもの鋭敏さで、この教義が最終的に行きつくことになる帰結を直感し、それを前にして恐れをなして後ずさりをする。すなわち、人間の本性と、喪失されえないものとなった恩恵とを区別できないとなれば、その結果、罪の概念そのものが崩壊することになるのだ。このためカトリック教会は、……、神の恩恵の介入の必要性を説き、さらに、その恩恵が本質的に「失われる」(amissibile)ものであること、つまり、罪を通じて失われることを主張してきた……。(p.156)