旦敬介「ライティング・マシーン―ウィリアム・S・バロウズ 」



" Love ? What is it ? The most natural painkiller what there is . Love. " William Seward Burroughs
「愛とは何だ?この世で一番自然な痛み止め。愛」(p.141)


バロース加算機(現ユニシス・コーポレーション)の御曹司でハーバード卒。ちなみにお兄さんはプリンストン卒。同性愛者。極度の麻薬中毒で、当局からの逃亡先のメキシコや南米やタンジェで、新種のドラッグを探し求める。妻を”ウィリアム・テルごっこ”で誤って射殺した…しかし学生時代から親交のあったケルアックやギンズバーグと共に、ビート文学の代表格であり、ニルヴァーナらの崇拝を集めた。
という彼のキャリアは模範的な学生生活を送った身にしてみれば相当格好良いのだが(いや、今すぐにでもドロップアウトできるのだが、順調さに対して微塵の未練もないというのは、なかなかできない)、この本が描き出しているバロウズ像は違う。
創業者一族とは言っても持株も少なく、事業にも携わらず、富裕層相手の雑貨屋を営んでいた、中産階級に属する温厚で理解のある両親。「裸のランチ」出版の45歳あたりまで、月200ドル(最低限の生活ができるくらい)を彼に送金し続けた。裁判費用等が発生しても当然送金。バロウズ自身は、銀行家のような身なりをし、何度も自主的にヘロイン常習治療プログラムを受けた。まるでおかまのような振る舞いで、ギンズバーグに愛を求めた。ボーイフレンドの愛なしではいられなかった彼の、死の前日の日記に書かれたのが冒頭のひとことだ。
才気走った破天荒な人生に見えても、実際の人柄は気弱で繊細で、実直な人間だったのかもしれない。「裸のランチ」を読んでひととおりの経歴を調べて、という程度では窺い知れない。彼の派手すぎる表層に惑わされる人がどれだけいることだろう。


…思考や意識をそのまま書いていくというのは相当に異常なことだし、実際にはスピード的にも内容的にもほぼ不可能だと思うが、しゃべるようなスピードで書くことならタイプライターにとって相当に容易だからだ。……しゃべるように書くというのを、一人称で書くこと、と言い換えてみると、これが単にスタイル上の問題ではなく、書くという行為そのもの、世界と向き合う態度そのものの変質であることがはっきりするのではないだろうか。自分を世界の中心に据えること、自分を肯定すること、罪の意識からの解放……。(p.48)


携帯電話の、予測変換機能を切り捨てようか、と検討してみる。書くという行為が世界との向き合い方に影響を与えるなら、過去の自分が書いた語彙が自動的に表示されそれを繰り返し使うなぞ、どう考えたって生産的じゃない。


バロウズがビリーの母親の射殺時の状況を初めて文章に書いて説明したのは「クイア」のプロローグにおいてだ。この事件こそ、自分が作家となる原点だったことを彼は書き、自分のうちにこもった妄執を書き出していくことでしかその記憶から解放されえないと悟ったことが出発点となったと書いている。(p.257)


自分の妄執、執拗に覚えていることを書き出す作業については、3年前にJ.M.クッツェー「少年時代」を読んだときから、意識的な分析作業だと認識しはじめた。
「自分の感情を的確に言い表せるだけの語彙なんて、本当になかなか身に付かない。クッツェーが採用した10歳前後という少年時代は、自分が実際に思っていて伝えたいはずのことと、自分が口にしていることとの落差に気がついて、それをひたすら埋めようとする時期でもあるように思えた。彼は熟練した言語を身につけた今、自分が当時思っていたことをより確かな言葉として伝達にのせることで、彼の少年時代を救済したんじゃないかと思う。
さて私自身にも救済してあげたい感情記憶はいくらもあるぜ。それらをいちいち言語化して救い上げたら多分、自分が何を大切にして生きているのかが判るんだろう。」(2008.4.22memo)
肯定的にばかり捉えていたけれど、語りだし言語化することは、記憶からの解放でもあるし昇華でもある。妄執が消えてしまうということだ。秘めていた感情を喪失してしまうことは、怖いことではないんだろうか。
学生時代をともに過ごしたある友人が、彼が5年程前に被った最大の悲劇(女性に関すること)を、いとも簡単に私の同行者の前で語っているのを見て、寂しかった。その悲劇を、彼はもう、数回会っただけの人の前で披露することができるようになったのだ。もう彼にとっては悲劇というより思い出なんだ、とはっきり悟った。悲嘆を忘れるのと語りだすのと、どちらが先だったのかは分からないけれど、きっと語る頻度は年毎に増えて、そのたびに悲嘆は整理されたのに違いない。
本当のことは語ることができない…大江健三郎も幾度か話中人物にそう言わせたが、語ったらすべてが崩れるから、という意味以外にも、語ったらそれを失ってしまうから、という喪失の恐怖が含まれていたのかもしれない。
わたしはどの程度、本当のことやその近傍にあることを、語り、消耗したのだろうか?