ジョルジョ・アガンベン「開かれー人間と動物」



この本は、アガンベンの政治哲学、特に生権力に関して彼が述べるときにその基礎とする、人間の身体と生そのものをめぐる議論の一部です。「剥き出しの生」を、人間から動物にまで思考の範囲を広げて考察し、位置付ける。主にハイデガーを用いての論証。以下、自分用のメモになってしまってこんなとこに曝すのもお恥ずかしいんですが。


バタイユの秘密結社の「人間の頭からの逃亡、囚人が監獄から逃げるように、人間は頭から逃走した」という認識と、アセファル(無頭人)という旗印は、図抜けて的確だったんだなと思う。監獄と頭を類比させたことはフーコーを思わせ、人間の身体を掲げたことは生権力の台頭を思わせる。
動物は世界なしですませている、とはアガンベンは見事な言い回しをする。動物はあるはずの世界に対して放心し、何か他のものに対して無条件に心を奪われ、それを自分に関係するものとして知覚するということが本質的にできない。そこに人間がいたとしても、彼らの開かれに対して盲目で、存在が無いことになっている。開かれというのは世界に対する存在の解き放ち、露顕、投企(ハイデガー参照)。
ただし、ここで言う動物/人間の区分は、常におこない難い。例えば、言語によって分別することはできない、あくまでそれは歴史上の産物だから。また、人里に野生児が現れたときに村人が必死にそれを育てるのは、人間という種が明確に持つ外見的な要因なんてないんだということを思い知らさせる存在だから。彼らは動物人であり、人獣ではないととらえられている。ただ彼らが存在者として示すテリトリーは、「人間以外のもの(排除、人獣)」と「生物から人間を区別する(包摂、動物人)」というその分割の最前線にいて、その位置は常に揺れ動いている。排除と包摂の両方がせめぎあい一致するかも未確定な、例外状態にそれは起こる。そしてその医学的な実践と政治的な思惑は現在においても常に考慮される。例えば、生殺与奪の権利について。そこで動物と人間が区別されることによって、人間が生産される。あるいは死体の生産=アウシュビッツ
コジェーヴについて、ジジェク同様彼も、日本人は文化的な意味で死した人々だと述べる。スノビズム、茶道や歌舞伎、形式化された価値によって、自然生来的な動作を否定し、無償で自殺に踏み切る。


アガンベン4冊を続けて読む予定。以下順番。
1)ホモ・サケル
2)例外状態
3)アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人
4)開かれー動物と人間                 ←今ここ
5)中味のない人間
6)残りの時ーパウロ講義
7)幼児期と歴史