大江健三郎「水死」



自分が生をどうにか生き延びていくなかで、ふと大江がそばにより添ったことがあった。その時もやはり転回点を迎えていた。「個人的な体験」を読み進めることができない状況に陥り、わたしは、作中で大江に該当する人物がしたのとまったく同じく、床にただ茫然と身体を延べていた。時間の過ぎるままにいて、知らずと日暮れが訪れた。そして今は作中の女性劇団員が伴走者だ。夏目漱石「こころ」の解釈、前作「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」内の映画への批判点がおどろくほどわたしと似ている。行動力があり美しく、手掛けた劇で華々しい成功をおさめていく彼女は、よき半身としてわたしを奮い立たせてくれる。


「水死」は全ボリュームの開始1/4で、「水死小説」の流産が語られる。父親の水死を小説化するための資料「赤革のトランク」を送ってほしい、と作家・長江古義人はずいぶん前に母親に依頼し、当時書き始めていた「水死小説」の草稿を届けた。しかし母親はその依頼を拒んで、草稿もトランクも死後10年までは彼の手に渡らないよう遺言をしていた。その10年目、とうとう彼はトランクを手に「水死小説」を自らのレイト・ワークとして完成させようと、故郷へと赴いた。しかしそれはあえなく頓挫してしまう。


次の1/4で、「水死小説」の戯曲化のために大江と接触していた劇団の女性幹部、ウナイコの新しい劇が語られる。「死んだ犬を投げる」。演技者と観客いりみだれて議論する形式の現代劇で、それぞれ参加者は反対だと思った論者に対して縫いぐるみの犬を投げつける。議論において分の悪い参加者は、縫いぐるみの犬に埋まっていく。議題として夏目漱石「こころ」を採り上げるのだが、解釈が入り乱れていて興味深い。文庫版の解説で古井由吉が、自殺の必然性を多くの人が留保してしまう、と述べていた。そのことについては一応の解釈は自分でも成立させていたが、「先生」が遺書のなかで「明治の精神」や乃木希典の殉死を自殺の直接的な動機にしていたのはどうしても納得し難かった。(2007.07.19memo)ウナイコもやはりこの点を糾弾する。「先生」はただ、友人を死においやったという罪意識に堪えられなくなったというだけで、それはきわめて個人的なものでしょ?しかも半ば隠遁者だったじゃない。どうしてそんな「明治の精神」みたいな集合的な意識が動機となりえるのよ?実際わたしも思う、「先生」は遺書の最後の最後で逃げてしまったんだ、個人として生き延びそして個人的に死ぬことに堪えられなくて、集合のなかに自分を回収させることで、個人で背負うにはあまりに重い罪をせめて軽くしようと企んだんだ。
「先生」の罪意識の本質的なところは、友人に死を決意させるほどの苦痛を与えてしまった、という事実だ。友人が自殺しなければ、彼は友人が被った苦痛に気がつかず、のうのうと安寧な生をおくっただろう。自殺は、「先生」のように鈍感な人、あるいは読者のように友人の感情を推し量れるだけの描写を与えられていない人に、わかりやすく苦痛の大きさを伝えてくれる。ただ、本当はそれ無しでも、「先生」は彼の苦痛に気がつかなければならなかった。「友人に好きな人を奪われた」なんて、日常にごくありふれている。多くの人はそんなことでは自殺しないが、自殺の有無と苦痛の大小とは必ずしも相関しない。苦しんでいる人がいるんだということを知らなくてはいけない。女をどんな感情で、たとえば嫉妬心にかられてでも構わない、奪いさるのは自由だけれど。しかも「先生」は、その時点ではまだたいして好きでもなかった女を奪い去った挙げ句に友人が自殺したのだから、結局その女を背負わなくてはならなくなった。女という重荷は、そのまま彼の罪の塊だ。
自分自身に熾火のようにくすぶる感情のひとつに、友人が「知ったら彼女が苦しむだろうという判断で、ある成功を彼女に隠していた」と別の人に言っていたらしいのを知ったことがあった。彼女とはわたしのことだ。事実として友人にどのような判断があったかは推察しても仕方がないけれど、少なくともその言葉には、「わたしは彼女をケアする立場、より上位の庇護者である」と周囲に明確に表明したいという意図が見え隠れしている。その表明はなんとか自分が上位に立ちたいという欲望、もっと言えば劣等感を示しているように思えた。でも周囲の人々が細部を理解するはずがなく、友人の表明どおりに、わたしをケアされるべき弱者だと受け止める人もいただろう。そうやって周囲に自分の感情を蒔き散らし、自分の思うがままに思考を植え付けていく手法にはどうしても馴染めなかった。まあ、馴染めないからといって親交を絶とうとしないあたりが、わたしの特殊さなのだろうが。
そして自分自身では、どうやって自分の核を保ったままで周囲に拡張していこうか四苦八苦している。ここ数年で友人たちが次々に、一人ではない賑やかな生活に入っていった。思考の質そのものの変化を感じたようだ。ある種の思考の鋭さは失われた、と潔く認識している人もいたし、変化することを押しとどめない、と言う人もいた。ただ、変化が起こっていることを理解した上で受け入れ、それをよく観察して覚えておくことは、自分自身を信頼するために、ひとつづきの伝統だと認識するために、おそらく必要なんだ。
変化は受け入れるとしても、深みを失いたくないと思った。周囲とわたしを判別するための、明確な陥没だけは守りたい。
数ヶ月前に、2週間ほど他人との同居生活をおくったことがあった。空き時間を見込んでいつものペースなら読破可能な量、ベンヤミン3冊を携えたのだが、まったく読書は進まなかった。怖かった。時間が有り余っているのに、読書も成立しないし思考も派生しない。浮かんだ考えを同居者にすぐに話してしまい、しかも同居者の理解力が高いのが仇になって、思考をそれ以降伸展させる努力を怠っていた。結局、言葉の一つの目的は人に伝えることであり、それが達成された瞬間に、ほかの目的、たとえば思考のために言葉を使うことを放棄してしまう。田崎英明を読んだときだっただろうか、思考した瞬間にまさに正確に伝達される、天使の言語について考えたのは?パーフェクトな言語だが、ある天使をほかの天使を区別することはできそうにない。つまり、思考と伝達が両方存在して、しかもそれらに常にずれが生じていることが、個人を形成しているのかもしれない。だとしたら、「自分の核を保ったままで周囲に拡張」という言い方は正しくない。周囲との接触なくしては孤独すら判別できないはずだ。


残りの1/2は、大江の前作内で製作されていた映画を、次は演劇としてやろうと奮闘するウナイコの独壇場。映画は、長江古義人の故郷の伝承をモティーフにして構成されていた、メイスケが起こした二度の一揆についての伝承だ。映画ではメイスケの母が輪姦されることは描かれなかったけれど、今回はぜひ演じたい。女性の悲傷はイメージで描くだけでは物足りない、暴力がなされたのだということを明示すべきだ。(2007.11.27memo)ウナイコにはそう宣言する十分な理由があったけれど、周囲の反発に対してあまりに頑なだったために、発砲騒動にまで発展する。
「もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。」
そういってメイスケの母は、牢に幽閉されて衰弱したメイスケを受け入れた。一回目の一揆は成功したが騒擾の首謀者としてメイスケは獄死し、彼のオイディプスが二回目の一揆の首謀者として祀りあげられる。しかし帰途の道で残党に出会って、メイスケの生まれ変わりは惨殺され、メイスケの母は輪姦された。彼女は板にのせられ運ばれるが、その道すがら味方のはずの男に声をかけられる、快楽を感じただろう?メイスケの母は、そして女たちは悲痛の唸り声をあげる…。
長江は徹底的に受け身で、なにひとつ積極的な行動をとらず傍観する。(そういえば、前半1/2でも、女たちのなすがままだ。)そう、強姦を扱うと、その悲痛を味わった当事者を前にうなだれることしかできなくなってしまう。とりわけ男性は。何を言っても不謹慎だと捉えられてしまいそうだ。あなたの悲痛を理解しましたとは言えないし、理解したいと申し出ても拒否されるだろう。しかも、悲痛そのものを批評対象とすることができない。
おそらく強姦という概念は現代に至るまで無かったことだろう。実際に強姦は行われていたけれどそう捉えるなんて考えもしなかった、という意味ではない。古代にも、現代の女性に匹敵する知性と個性を備えた自立心あふれる女性がいたことは、古典文学を読めば明白だ。男性と対等にやりあえる芯の強い女性もいた。彼女たちは要は、男女の主従が性のこととは関係がないから、さして性について抵抗しなかったんじゃないかと思う。強姦は、男女の主従を性によって白黒付けようとする発想が生み出した暴力で、その発想の歴史はたぶん新しい。たとえば現代思想には、女性性はつくりだされた欲望である、という具合に現代の人間の思考形式を説明するものがある。つまり造物主である男性性に逆らうことは許されない。これは、女性の抵抗を許容せずに強姦するという行動原理に、よく適合していそうではないか。


2009年12月に出たばかりの、大江2年振りの新作で書き下ろし。私小説っぽいフィクションを読んでいると、作中で作家とその妻に降りかかる病が実際に起こっているのかもしれない、とはらはらしないではいられない。小説家は大眩暈を頻発し、その妻は癌手術を受けるのだが…杞憂だ勿論。