マルティン・ハイデガー「存在と時間(上)」

Martin Heidegger「Being and Time」


メガネをかけているひとにとっては、メガネそのものは距離的にははなはだ近く、かれの「鼻にのっかっている」が、この使用中の道具は、かれにとっては、ま向うの壁にかかっている絵画よりも環境的には遥かに遠いのです。……歩行するための道具である街路にも当てはまります。たとえば歩いてゆくときに、街路は一歩毎に触れられていて、およそ手もとにあるもののなかで最も近いもの、最も実存的なものだと思われています。いわば街路は、肉体の特定の部分すなわち足の裏に沿って移動するのです。それにもかかわらず街路は、こうして歩いている人に「路上」二十歩「距てて」出会う知人よりも遥かに遠いのです。(p.205)


メガネや腕時計や靴下や、すぐ手もとにあって身につけているものはその存在を意識しなくなる。最初は違和感があったはずなのに次第に存在を意識しなくなるということは、それらは自分の存在のなかに組み込まれていく過程を経たんだ。存在者からの視点で言い換えれば、自分の存在が手もとにあるものに拡張したということだ。同じようなことが、たとえば自分自身の掌について乳幼児期に行われたんだろう、と思わせる素振りを赤ん坊が見せることがある。赤ん坊は生後すぐの状態では、自分の身体の範囲を認識していない素振りを見せる。(たとえば身体に触れても反応しないことがある。)ところが自分のすぐ目のまえにある5本の突起のついた物体が蠢くのを眺め、自分のとある思惑とその物体の蠢きとが関連していることに後天的に気づく。そうした上でその物体は自分自身の手になり、自分の存在の拡張が完成する。年月が経って彼が成長したある日、事故で左腕を切断することになる。すると彼は、左腕を失ったにもかかわらず未だに左腕があるかのような感覚(幻肢)をひきおこす。神経系で物理的に連結されている範囲と自分自身の存在とは、必ずしも重ならない。
左腕を欠落してはじめて、それまでは意識しなくなっていた左腕を強く認識させられてしまうのと同じようなことが、街路においても頻繁に起こる。いつもとおる街路で、通り沿いの1件の家屋が取り壊されたとき、その欠落にはすぐに気付くのにその家屋がどんな形だったのかはなかなか思い出せない。街路の姿はそこを歩けば歩くほど意識しなくなってしまっていた。
すぐ手もとにあるものに自分の存在が拡張されていくという事実を遡ると、自分の存在の初源に立ち戻ることができそうに思えてくる。その場所こそがハイデガーの依拠する現象学的な地平にほかならない。ものごとが目の前に開かれた状態にあり、それを発見し了解して引き受けていくことによって、存在者は際立ってゆく。開かれた状態の性質や、それが存在することを決定されていない状態であること、主観的なだけではない、およそ世界が世界であるような世界性のこと、了解のしかたや了解そのものにひそむ存在の与条件のことをハイデガーはしらみつぶしに論じている。


手もとにあるものの存在としての適在性自身は、ひとつの適在全体性が予め発見されていることに基づいてのみ、見いだされます。したがって発見された適在性のうちには、つまり出会うところの手もとにあるもののうちには、わたしたちが手もとにあるものの世界適合性と名づけていたものが、前もって見いだされているのです。この前もって発見されている適在全体性は、そのなかに、世界へのひとつの存在論的関与を潜ませているのです。………今後わたしたちは発見されたということを、およそ現存在的でないすべての存在するものの存在可能性を表わす術語と確認するが、それは本質的には、発見されえないものなのです。(p.166)


現存在は、その事実的な存在において、かれがすでにあったようにあり、またすでにあった「ところのもの」です。はっきりしているとしないとにかかわらず、現存在はかれの過去性であります。そしてこのことは、現存在にはその過去性が、いわばかれの「背後に」押し寄せていて、かつ過ぎさったものをかれがなお目のまえにある性質としてもっており、この性質がときどき、現存在のなかで影響を及ぼすのだ、ということだけを意味するのではありません。現存在はその存在の仕方において、自分の過去性で「ある」のであって、この存在は、大まかにいえば、そのつど現存在の未来から「生起」します。現存在は、そのつどの有様で存在すべきであり、したがってまた現存在に属する存在了解をもってしても、或る受けつがれた現存在解釈のなかへと、現存在は生い立ち、またそのなかで育っていったのです。この伝承の現存在解釈から、さしあたりかつなんらかの範囲内で、現存在は、つねに自分を了解しています。この了解が、現存在の存在の可能性を開き示し、またこれを規定します。現存在の独自の過去性は、───そしてそれはつねにかれの「世代」の過去性を意味していますが───現存在の後に続くのではなくて、そのつどすでにかれに先んじてゆくのです。(p.48)


自分の存在については、かろうじて過去については承認できそうだ。だとすると、現存在を承認するなら、未来を導入して現在における過去性を獲得するしかない。ここで時間は、あたかも空間的に手もとから少し離れるかのように、現時点から少し離れるということをおこなっている。前にこんな記述を読んだことがある、いまの自分はつねに未来からの視線に晒されている。たとえば撮影された姿、書かれたことば、現在の自分は何がしかの形で未来において承認される。
詳細は中と下を読んでからよく考えることにしよう。そもそも今のところハイデガーに対する興味は薄い。彼なしでアガンベンを乗り切れなくなってきたのが今回の選書理由だ。(ここ半年でアガンベンの邦訳3冊出たけど、来日したりはしないかな?)「存在と時間」の初出は1927年で、ハイデガーが38歳のとき。フッサール現象学および現象学的研究年報」第8巻に収録。ものすごく現象学な論法です。