マルティン・ハイデガー「存在と時間(中)」

Martin Heidegger「Being and Time」


ナニカについての語りはすべて、語りが語られたこと、において伝達するのですが、これはまた同時に、自分の意中を打ち明けるという性格をもっています。現存在は語りながら自分を発表するのですが、これは現存在がまず「内部的なもの」として<外的なもの>に対して[嚢に入れて]包んでおかれているからではなくて、むしろ現存在は世界・内・存在として了解しながらすでに「外部に」在るからです。言表されたものの方がまさに外部存在、すなわち情態性(気分)のそのつどの有様なのであって、情態性については、それが内・存在の全的な開示性に相当することは、すでに示されていたのです。(p.74)


……<ひとは結局一度は死ぬものだけど、さしあたり自分には当たらないで済んでいる>と言いたいのでしょう。……死は、<まず第一にどこからかやってくるにちがいないけれど、さしあたって或る人自身にとっては、まだ目のまえにあるのではなく、したがってなんら脅かすものでない或る無規定なもの>と解されます。……「死ぬこと」は、現存在がそれにぶっつかってもとくにだれに属しているのでもないひとつの出来事にまで水平化されます。……現存在は、最も自己的な自己に属するひとつの優れた存在可能という点で、<ひと>のうちに自分を失うという状態に在るのです。……(p.236)


どうもハイデガーがいいとは思えない。これだけ分厚い論文でしかも若くして書き上げたのに、渾身で考え抜いたという印象がない。フーコー「狂気の歴史」やサイードオリエンタリズム」からは感じとれていたあの気迫がないので、よし受けて立とうというドライビングフォースに欠く。フッサール傘下だったなんていう前書きを読んでしまったのが悪かったんだろうか。結局は大家の庇護のもと、さして批難を受ける心配もせず一次資料の探索もそこそこに、ただし現象学存在論を結びつけるという強力な武器でもって大著に仕立てた。そんなふうに見える、今のところは。「世界・内・存在」みたいな奇天烈な用語たちをベンチマークに配するのも、個人的には好みじゃない。
下巻も勿論読むけど、一時中断してまずはアガンベン「思考の潜勢力」を読んじゃおう。ずしり重い500ページ、いい筋トレになりそうです。