J・M・クッツェー「恥辱」



良いです。近年読んだ小説の中では、フラナリー・オコナーの短編以来かも。良いのか悪いのか彼女よりも読後感を言語化しやすいし。
初老の大学教員ラウリーが教え子と関係を持ったことを告発され役職を追われ、都落ちして、自分の娘がひとりで暮らす農園に同居するようになる。がやがて、おそらくは隣人によって仕組まれた強盗と娘のレイプ事件が起こる。この2つの恥辱に彼は、正論と率直さで対峙するのだが、大学や学生らの都会社会から、或いは娘や隣人らの村社会から、彼のその仕方に愛想をつかされ、最後にはどちらにも服従せざるを得ない(得なかった)ことに気付く。というのがストーリーです。
ラウリーがいい歳してとにかく女好きで、彼は彼の欲望に対して冷静に振るまうことを信条とするものの、自分を納得させることの不可能な程度にまで女を追うことを犯してしまう。でも自分は正当なことをしたまで!破綻はしているけれども!セックス・スキャンダルですら恥辱とはとらえず、彼は横柄とすら言える態度を保持する。ストーリーの途中までは彼の行ったことは恥辱でも何でもなかった。都会社会が単に彼のやり方を理解しなかっただけで、彼はそれに服従する必要はなく、従って誰かから辱めを受けた訳ではない。ところが自分の娘の農園で暮らすようになり、村社会に嫌悪感を感じつつ滞在が長引く中で、娘が、魅力的とは言い難い娘が、彼女の農園を乗っ取ろうと企む隣人が仕組んだらしい強盗によってレイプされ妊娠する。にもかかわらず、これからも村社会で生きて行くためにはそれに対して黙さざるを得ない、と娘は決意している。その辺りから彼は、性的な事柄によって服従させられるような外部との繋がりを認識して、(また彼が捨てたと思っていた都会社会からは既に、不服従であった彼は排除されていたことを思い知らされて、)現実の生を生きていくために、辱めを受け入れることを選び、彼に残っていた僅かな抵抗すら殺してしまう。
女性がとても強く美しく描かれているのがこの話のよいところであるような気がして、その描写はラウリーの視点に立ったものが多い。幸せな家庭を持ちながらも彼の情婦であった女、今でも時々連絡をとる最初の妻、情事の相手の美しい女学生、農園に住む肥えた娘、動物診療所の醜い女。彼が彼女らに感謝し、追い求め、情愛を消しがたいというのは、恥辱なんていう感情の中にあっても、純粋で幸せな気持ちのように見えて、それが話の中の彼女らの美しさによく出ている。本当に女好きなんだなと、好色っていうんじゃなく女性性に心を奪われやすいというのの、その視線の動きが手にとるよう。実際彼は、満たされない女性性に折り合いを付けられなかったことによって転落していくのだから、その気持ちが彼にとっていかに大切なものだったかが推し量られよう。