ジョルジョ・アガンベン「例外状態」



3年前にたった一冊読んだきりのアガンベンが、奥歯にずっと挟まった状態のままでいて、脳死とか死刑論とかいった生死問題に言及する人文書を読むたびに彼の味がじわーっと滲み出してきていた。その本は「ホモ・サケル」、man-sacred=聖なる人間、脳死判定を受けた人間や強制収容所収容者、生きているのに死んでいる、彼を殺しても罰せられないという状態、主権をうばわれ、宙づりにされた生について書かれた本。「例外状態」はその続編で、法機能が停止した状態の体というのを、人間の身体から国家の振る舞いへと発展させている。seriesの真ん中2冊をスキップしたみたいなのでおっつけ補完しよう。前の本を読んだ段階では、基本的人権の停止状態というような理解しかしていなかったけれど、法という言語を書き込まれた体とそうではないもの、というような存在の現れ方の違いを考えたほうがよいのかも。
法治国家は、というより民主主義の手続きに従えば、反対意見やレジスタンスそのものを規制することは原理原則上ありえないのだけど(規制した時点でそれは民主主義ではない)、それらがある閾値を踏み越えた時点で、法は法の一部を停止し反対勢力を封じ込める動きに出る。そして例外状態が生まれる。例外状態を法に書き込むのは、それ自体の補集合の存在を認めそれをも包摂しようという、パラドックスを抱えたままの全能性を得ることになる。ある閾値というのは、本書中で何度も繰り返される「必要は法律をもたない。」という言葉に表されているように、必要状態に達したかどうかが、例外状態の許否判定にかかっていて、その判定は法が停止する前後で異なることすらあり得る。
例えば日本では、第二次世界大戦中は治安維持法などによって法を停止し、当時の国家首脳が、必要状態であるという認識のもとで半ば独裁を行った。しかし戦後になって彼らの行いは国としての正当防衛策だったとは認められず、(彼らが行為を行った期間は法停止していたにも関わらず、罪は遡及され/或いは別の体系の法によって)彼らは戦犯となり罰を受けた。このような例外状態の扱い方は正当なのか、政治的妥当性以外に判断のしようがあったのか?国内の問題としてとらえた場合、彼らは戦犯と言えるのだろうか?
また、例外状態というのは、法が有効でないことが広く発令されてはじめて効力を持つけれど、実際これから起こりうる動乱もしくは戦争というのは、法が有効でなかったんだ、と事後になってはじめて明らかになるような種類のものばかりになるのではなかろうか。核兵器にしろ専守防衛ミサイルにしろ、それを使いうるかもしれない、使おうかと思っている最中だよという宣言、それがどこかから発射されたけれどどういう指示系統で行われたか判らない、いやウチじゃないよという偽り、そういう政治家同士の密室戦、情報戦が格段に増えるはずで、戦争放棄を建前とする日本では特にその傾向が顕著になるだろう。例外状態に知らぬ間に突入していて、それは今かもしれない。その怖さを思ったら、例外状態をタブー視するような空気、「核を保有するというそのことすら議論してはいけない」ような空気、はもう変えないといけないのかもしれないと思う。


ところでこの本、装幀がきれいです。戸田ツトムさん。例外状態って多くは動乱状態なので鮮烈な赤とか想像しがちだけど、表紙も中も静かなブルー。アガンベンの、他の本も装幀きれいなので、次どれにしようか迷います。