ロラン・バルト「明るい部屋」

Roland Barthes「La Chambre claire」


「肖像写真」は、もろもろの力の対決の場である。そこでは、四つの想像物が、互いに入り乱れ、衝突し、変形し合う。カメラを向けられると、……奇妙な行動であるが、私は自分自身を模倣してやまないのである。だからこそ、写真を撮らせる(または撮られる)たびに、必ずそれが本当の自分ではないという感じ、ときには騙されたという感じが心をかすめるのだ。……その瞬間には、私はもはや主体でも客体でもなく、むしろ、自分が客体になりつつあることを感じている主体である。その瞬間、私は小さな死(括弧入れ)を経験し、本当に幽霊になるのだ。「写真家」はそのことをよく知っているので、彼自身、自分の手で私を死んだ状態のまま永久保存するようなことになるのを恐れる。〈生き生きと見せる〉ために、写真家たちが演ずる大騒ぎほど滑稽なものはない。……「写真」が「死神」とならないように、「写真家」は戦々恐々として大いに奮闘しなければならない、とでもいうかのようである。しかし私のほうは、すでに客体と化してしまっているので、抵抗しない。(p.23)


ある日、何人かの友人が子供の頃の思い出を語ってくれた。彼らには思い出があったが、しかし私は、自分の過去の写真を見たばかりだったので、もはや思い出を持たなかった。……「写真」は暴力的である。……撮影の度に、強引に画面を満たすからであり、そのなかでは何ものも身を拒むことができず、姿を変えることができないからである。(p.113)


ああ、せめてそこに誰かのまなざし、一個の主体のまなざしがあり、写真のなかから誰かが私を見つめていたら!というのも、「写真」には、私の目をまともに見すえる能力があるからである──しかしこの能力は、正面を向いたポーズが一般に古めかしいものとされるようになったため、次第に失われつつある(とはいえ、これが映画との新たな相違点なのである。映画では、誰かが私を見つめることは決してしない。映画は「虚構」であるゆえに、それが禁じられているのだ)。(p.137)


昨年末、dumbtype高谷史郎の「明るい部屋」の舞台を観たので(高谷、浅田彰坂本龍一が居た)。