ジャン・ジュネ「シャティーラの四時間」

Jean Genet「Four Hours in Shatila」


その時だった。家から出ようとする私を、突然の、ほとんど頰を弛ませるような軽い狂気の発作が襲った。……死者は男女とも皆イスラーム教徒なのだから屍衣に縫い込まれることになる。これだけの数の死者を埋葬するには、一体何メートルの布地が要るだろう。そしてどれほどの祈りが。……今こそ書かねばなるまい、白布のメートル数を計算するなどというこの突然の、本当に束の間の狂気のおかげで、私の足取りはほとんど軽快なまでに活気づいたこと、またこの狂気の原因が、前日耳にしたパレスチナ人の女友だちの次のような考察にあるらしいということを。……(p.23)


……フーベルト・フィヒテとの対話で、そのほぼ最後のところで、あなたは話すときにいつも少し嘘をつくのだと言っていますね。それはたんなるアイロニーだったのでしょうか。
Genet:こう言っておこう。ちょっとした冗談でもあった。けれども根本では、事実そう感じている。自分に対してしか正直になれない。話し始めると、まわりの状況によって裏切られる。聞いている人間によっても裏切られる。コミュニケーションというものはそういうものだからだ。自分の言葉の選択によっても裏切られる。自分一人に話しているときは、私は自分を感じない。時間がないし、自分に作り話をきかせるまでもない。自分に嘘をつくには年をとりすぎている。……(p.102)


すこしの嘘が混ざっている、ということを意識しながら話すようになった。対話相手を楽しませようと話を誇張し、彼が欲しがっていることばを察して投げ込む。そういった嘘は悪いことじゃないけれど、相手と別れたあとに一人で考えあぐねる、ああいうことを本当に考えているとは思わない、だが彼との人間関係においてこれからはそういう役回りになってしまいそうだ。いちど発声されたことばは事実へと変わりやすくなりはしないだろうか?たとえば親しい人についてぞんざいな扱いで話してしまった。話は繰り返される毎にリアリティを与えられるだろう、その親しい人が果たして自分にとって大切なのか些細なのか、判別しがたくなってしまったらどうしよう。
それに、まさかその会話が本人に伝わるなんて思いもしていなかった。
その本人の側におそらく立たされていたんだろうと思うことがある。過去を振り返った話しかできないのは、彼の発言が本意なのかすこしの嘘なのか、その後も長く付き合い続けてようやく判断できるからだ。いま思うと、とにかく付き合い続けてみること、手酷い裏切りだと思えることがあってもとりあえず関係を続けることというのは、大切な人を失わないためには不可欠だ。いちいちすこしの嘘に引っ掛かっていては、たいした関係を築けない。裏切られたから関係を断ち切ろう、つらいことは忘れてしまおうという解決方法が、そもそもわたしは好きじゃない。
交友関係の性質上、周囲には大人振りたがると言おうか冷静を装う人が多くて、嫌悪感情は直接言われることはなく、伝聞で伝わってくるばかりだった。自分に対する嫌悪の言葉を耳にしたとき、その言葉がどのようにして引き出されたかをよく考えてみる。その人は誰に対して話していた?わたしを貶めることが対話相手を喜ばすだろう、と心得てはいなかったか?そしてどうしてその嫌悪はわたしに伝わったのだろう。付き合いを断ち切って欲しかった人が存在したのだろうか?