マルティン・ハイデガー「存在と時間(下)」
Martin Heidegger「Being and Time」
……<ひと>は決して死にません。なぜなら、死がいつもわたしの死であり、本来的には先駆的覚悟性においてだけ、実存的に了解されるかぎり、<ひと>は死ぬことができないからです。決して死ぬことなく、終りへの存在を誤解している<ひと>は、それにもかかわらず、死からの逃避に、特色ある解釈を与えます。(いのちの)終りまで「まだまだ時間がある」(だからなにも急ぐことはない)。………しかしながら死を避けるばあいにも、死は、この逃げるものを追ってきて、背を向けているのに、かれはなおも、死を見ねばならないように、今というただ経過する害のない無限の継起もまた、奇妙な謎めかしさでもって、現存在「の上に」ひろがっています。わたしたちはなぜ<時間が過ぎ去ってゆく>と言って、しかも同じ強さで<時間が起こり生じる>と、なぜ言わないのでしょうか。純粋な今の継起を眺めれば、両者はなお同等の権利で言われるはずです。<時間が過ぎてゆく>という言い方で、現存在は、それが本当だと思いたいより以上のことを時間について了解していて、つまり世界時間がそのなかで時熟する時間性は、すべての覆い隠しにもかかわらず、全く覆われているのではないということを、けっきょく了解しているのです。時間が過ぎてゆくという言い方は、<時間は留めることができない>という「経験」に、表現を与えるのです。このような「経験」はまた、時間を留めようと欲することに基づいてだけ、可能なのです。……現存在は、逃げ去る時間を、自分の死をめぐる「逃げ腰の」知識から知るのです。……(p.425)