ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論(4)方法としてのユートピア」
Walter Benjamin「The Archades Project/Das Passagen-Werk」
近代的な技術の世界と、神話のアルカイックな象徴の世界の間には照応関係の戯れがある、ということを否定できる者がいるとすれば、それは、考えることなくぼんやりものを見ている者ぐらいだ。技術的に新しいものは、もちろん初めはもっぱら新しいものとして現れてくる。しかし、すぐそれに引き続いてなされる子どものような回想のなかで、新しいものはその様相をたちまちにして変えてしまう。どんな子ども時代も、人類にとってなにか偉大なもの、かけがえのないものを与えてくれる。どんな子ども時代も、技術的なさまざまな現象に興味を抱くなかで、あらゆる種類の発明や機械装置、つまり技術的な革新の成果に向けられた好奇心を、もろもろの古い象徴の世界と結びつけるものだ。自然の領域では、好奇心とこうした象徴世界との結びつきを初めから持っていないようなものはなに一つとしてない。ただし自然においては、この結びつきが新しさというアウラのなかでではなく、慣れ親しんだもののアウラのなかで作られるのである。つまり回想や、子ども時代、夢のなかで。■目覚め■(p.15)
野蛮社会、文明社会、調和社会の都市建設。「野蛮な都市は、たまたま偶然に寄せ集められた建物からできている。……これらの建物は、曲がりくねった、狭くて見通しのよくない、不健康な通りの間にごたごたと集められている。これが一般にフランスの都市である。……文明化した都市は、単調で不完全な秩序をもち、碁盤の目に配置されている。例えば、フィラデルフィア、アムステルダム、ロンドン新市街、ナンシー、トリノ、マルセーユ新市街がそうであり、また三つか四つの通りを見れば完全に知れてしまう。それ以上は見物する気にもなれない他の諸都市もそうである。」反対に、どちらにも偏らない調和社会は、「不統一な秩序と結合された秩序を和解させる。」フーリエ『労働者都市』17-18ページ(p.214)
若きマルクスは人間の権利が公民の権利とは区別されてしまっていることを批判する。「…………政治的共同体である公民体制が政治的解放者からこうしたいわゆる人権なるものの保持のためのたんなる手段にまで引き下げられ、かくて公民が利己的人間の下僕であるとされ、人間が共同存在として振る舞う領域が、人間が部分存在として振る舞う領域に貶められ、ついには公民としての人間ではなく、私人(ブルジョア)としての人間が本来的かつ真の人間と考えられるようになるにいたっては、それは……謎……といわねばならない。……謎はかんたんに解ける。……古い社会の性格はどのようなものだったか?……封建制である。古い市民社会は直接的に政治的性格を持っていた。…………しかし市民社会のメンバーであるかぎりでの人間は非政治的人間であり、必然的に自然的人間として現れ、人権は自然権として現れる。…………」マルクス『ユダヤ人問題のために』(『マルクス=エンゲルス全集』第一巻第一部、フランクフルト・アム・マイン、1927年、595-599ページ)(p.253)