ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論(5)ブルジョワジーの夢」

Walter Benjamin「The Archades Project/Das Passagen-Werk」


都会の雨には子どもの頃を夢のように思い起こさせるという、あなどれない魅力がある。しかしそれは、大都会に育った子どもでなければわからない。雨はいたるところ気づかぬようにひっそりと降り続き、日々を灰色にするばかりか、どこもかしこも同じようにしてしまう。そんな日には朝から晩まで同じことをしていられる。例えばチェスをしたり本を読んだり喧嘩をしたり。(p.10)


曇り空の日の風景は繊細で美しい、と感じたことがあった。数週間前の午前中、等々力の駅から多摩川の方向へまっすぐにのびる道を、遅刻しないように足早に、ぱらつきはじめた雨が顔にかからないように俯いて、ただひたすら歩いていて、環八との交差点に差しかかったところで足をとめてふと顔を上げた。空一面を覆う厚い雲は、辺り一帯に、細かい光の粒子を拡散させていて、陰影のない、ただ細部が奇妙なほどにまで精密さを増し、緻密に表現された風景を出現させていた。(2008.1.23memo、都会)
特急電車が山あいを抜けると視界が急にひらけて、四周を高い雪山に囲まれた平地を遠くまで眺めわたす。数キロ先には繊細な山肌をさらしている小高い丘があって、枯れた樹々の上に雪がまばらに降り積もる。老け込んで白髪混りになったようだ、古い墨絵を目の前にしたときのような厳粛な心持ちにさせられる。別の方向には大気が白くけぶっている一帯がある。上空に浮かぶ雲はその一帯にだけ、天地を混濁させることを許したようだ。静かなプールに突然誰かが飛び込んで巻き上げた泡のような、唐突な大気の白さ。いまあの村では雪が降っている、雪によって地上は雲の領域に近づく。


われわれが倦怠を感じるのは、自分が何を待っているかがわからないときである。何を待っているかがわかっているのは、あるいはわかっていると思い込んでいるのは、ほとんどの場合が浅薄さの現われか、精神の混乱の現われである。倦怠は偉大な行為への敷居である。──そうしてみると、倦怠の弁証法的対立物は何であるかを知るのは、重要なことだろう。(p.14)


次に何をすべきかがわかっているという状況には発展性がない。今の自分が予想した状況を超えることが、次の自分にはできないからだ。次にどうしたらいいのかがわからない状況で、それを止揚するための対立物がわかっているとたしかに有効だ。たとえばセレンディピティ?それじゃちょっと頼りない。ベンヤミンの言う倦怠は、アガンベンが紹介していた、神学で言う怠惰に似ている。敬虔な修道士が、神の存在をどうしたらいいのかを思い惑う、高貴なる後ずさり。セレンディピティは恩寵と解釈されるだろうか。そういえば弁証法は、神の定義に関連して議論されることがある。


……ある人間が自分の息子の生まれた日に50歳で死に、その息子もまた同様に自分の息子の生まれた日に50歳で死ぬ、と仮定してみよう。そしてこの連鎖をキリストの生誕からたどってみれば、われわれの暦の教え方の出発点からまだ40人も生きていないことがわかる。こうすれば、歴史のなかの時間経過のイメージが作り変えられるし、人間の生にふさわしい明確な尺度を歴史の時間経過に持ち込むことができる。……(p.201)


女性の出産年齢を20歳とすると、5人遡ればすでに第一次世界大戦前の世界だ。20人で江戸幕府開府まで。40人遡れば源平合戦がリアルタイムで進行中だ。たかだか40人なんて一枚の紙に書ききれるくらいしかない、クラス名簿みたいなものだ。時間軸に対して平行に進むとたかだか40人で意思疎通できるか怪しいくらいの人にまで漂着してしまうのに、時間軸に対して垂直な平面に広がると40人というのは同級生レベルの濃密な関係の範囲だ。そう考えると、人の生の広がりは、通時性に対して共時性があまりに圧倒的だ。
同じ時代に生きている、ということそのものは、実はたいした奇跡ではない。ベンヤミンに倣ってキリストの生誕からたどってみても、50歳の年齢の離れで時代を共有するのはそれなりに意義があるから(65歳は15歳に意義のある内容を伝えることができるから)、今のところ同時代確率は1/40だと言っていい。この数字はぜんぜん奇跡的じゃない。それに、たとえばシェークスピアのように時代を超えて影響を与える人物は、ある意味では同時代確率を1/40から1/8に上げた訳だけれど、主観的に思う彼の業績に対しては、この程度の掛け率ではちょっとささやかすぎる。


この分冊をもってパサージュ論読了。