J.M.クッツェー「ダスクランド」
J.M.Coetzee「Dusklands」
つまり彼女は、ぼくには秘密があると思っているし、しかもそれが、癌のように口に出せない秘密だと信じている。が、彼女がそう考えるのは自分自身をなぐさめるためだ。というのも、秘密があると信じることは、記憶の迷路のなかを探りさえすればこのでたらめな現実の説明がつくという、陽気な原理を信じることと同じだからだ。その原理の忌避者たちのいうことを彼女は信じないだろうし、彼女の友だちだって同じことだ。彼女たちは鈎爪を立てて、どんなに根っこが深くてもわたしたちが掘り出してやるわ、と彼女に約束する。ぼくは彼女たちを頭のなかから追い払う。(p.24)
前半は、ベトナム戦争において心理作戦の理論作業をおこなっていた男の報告書と、日常生活の回想録で成り立っている。報告書は彼の上司クッツェーによって目を通されている。彼自身は結局は戦地には赴かない。それなのに回想録には、日常生活をベトナムの戦闘に比喩する描写が多くて、あたかも彼が彼独自のベトナムを体験しているようだ。彼は自分の子供を連れ家を出た。妻と法務官が面会を求めて滞在先のモーテルに押し入ったとき、彼らのことはベトナム兵に見えた。「それをおろすんだ」…そしてポンという音と、彼の指の下の道具が柔らかな皮膚によって押し戻される感触。それは銃ではなく果物ナイフで、彼は発砲したのではなくナイフで人質を突き刺したのであり、彼が拘束していた人質は捕虜ではなく我が子だった。彼は捉えられ精神鑑定を受ける。ベトナム戦争の作戦に参加したことが彼の精神を異常にしたのだろうか?
彼はブリーフケースに保存してあるものを大切に持ち歩いていた。彼の周囲のひとびとは、それこそが彼の行動の原理になっているはずだと信じたがる。彼の行動が常識的であれ非常識であれ、その行動の原理を彼らは求めたがる。願わくばどうしてそのような行動に至ったのかを明らかにしたいし、それが無理でもせめて行動に至った理由が存在していてほしい。その理由が秘密であるのは、それが重大であるからに違いないと錯誤する。でもスピノザも言ったではないか、悲しいという感情の表出がまずあって、次にその原因をつくりだすという、因果律の転倒のことを。彼は原因に拘泥しない。彼が語らないのは、それが重大であるからではない。語ることと語らないことの閾値が異なっていただけだ。
わたしは大地に穴を掘って、さやをつくった。もし歓喜と笑いで、わたしのペニスが四インチの長さのままだらりと垂れさがり、放尿しかできないような情けない状態でなかったら、わたしはその原行為(ウル・アクト)にふけっただろう。「神よ」と、わたしは叫んだ。「神よ、神よ、神よ、どうしてあなたは、そんなにもわたしを愛してくれるのですか?」わたしは泡を吹き、よだれを垂らした。雷鳴も稲妻も起こらなかった。わたしは、頭蓋骨を包む筋肉が痛くなるまで笑った。「わたしもあなたを愛しています、神よ。あらゆるものを愛しています。石も砂も灌木も空も、クラーヴェルも、ほかのものたちも、あらゆるうじ虫も、この世のあらゆる蠅も、わたしは愛しています。しかし神よ、そういったものたちが、わたしを愛さないようにしてください。わたしは仲間が嫌いなのです、神よ、わたしはひとりになりたいのです」。そういった言葉が口をついて出てくるのを耳にするのは、気持ちのいいものだった。しかしきわめて内向的で、ひたすら存在するだけのそれらの石たちこそ、結局わたしが愛するものだと、わたしは心を決めたのだった。…………水辺でよく見かける、小さくて黒い甲虫がいる。……どんなにつっついても、虫は死んだふりをやめない。……どんなに脚を一本ずつ引きちぎっても、虫はひるんだりしない。頭を引きちぎると、やっとその身体に虫らしいささやかな戦慄が走りぬける。が、その戦慄はきっと不随意のものだろう。最期の瞬間にその虫の心によぎるのはなんなのだろうか。もしかしたら、心がないのかもしれない。もしかしたら、祈りをするカマキリ(ホットノッツホット)のことをよくそういうように、虫の心は外化されて、単なる動作になっているのかもしれない。(p.188、クラーヴェルは彼の従者で原住民)
後半は、十八世紀南アフリカの探検記に充てられている。探検家の名前はクッツェーで、彼の血族が翻訳した伝記という体裁である。彼は原住民と接触したが、文明が全く異なる両者は相容れず、さんざんな結末をたどる。彼自身の従者も、遭遇した集落の住民も、すべて原住民ばかりだった。言葉が通じ同じ食物を食べ同じ小屋で寝て、しまいには原住民たちは同じ人間であるかのように彼を扱いはじめたけれど、彼はそれが疎ましい。ひどい目に遭い荒野を逃亡する彼は、ようやくただ一人になったが、実際はそれまでの間もただ一人でいるのと変わらなかった。原住民は救世主キリストを理解しないし、彼が彼らと同じ人間ではないんだということを理解しない。頭のよい、でも扱いづらい羊であるに過ぎないのに。
たとえば痛い苦しいという感情を表現する身体を失ったとき、その感情は存在しつづけるのだろうか?原住民に袋だたきにされ、もしも顔面と両手と声を失ってしまったら、彼の苦しさは伝わらないのか、それとも存在しなくなるのか、どちらなんだろう。蜘蛛の脚をひきちぎれば蜘蛛は残った脚をあえがせるし、ミミズをぶつ切りにすればミミズは身体をのたうち回らせる。その動作は苦痛という表現以外の何かには見えないけれど、さりとて蜘蛛やミミズに動作以上の内面を推察することも難しい。蜘蛛がすべての脚を失ってあえがせることができなくなったなら、蜘蛛の苦痛はもうなくなったのだとしか言いようがない。またあるいは人間の言語ではどうなんだろう。しっぽりと語り明かす、という類いの翻訳困難な日本語で情景を説明したとき、日本語を母語としない人は、それが彼らの言語では何に該当するのかが分からないのではない。そもそもそれを表現することばはない。ことばとして外化されていないから認識できない。認識できないならその情景は存在しないのと同じだ。彼らには!
自分について語らないことが多く、仲間という意識が薄いように他人の目にはうつっていることだろう。そう見られること自体は別に構わないのだが、その他人の目に不満や心配や危惧を見てとって、遣る瀬ない気持ちになることが多かった。
例えば恋愛についても、普段から友人たちには惚気も言わず悩み相談もせず、何か訊かれても当たり障りなく流すばかりだ。そうすると、男問題が勃発してさあ自分だけでは解決不能、負のスパイラルに突入したと悟ったときに、相談できる人が誰もいないという状況に陥ってしまう。問題は常に、実際的なアドバイスを必要とする側面と、感情的な側面との両方をかかえている。実際的な側面については、何も知らない友人たちができるアドバイスは結局、一般論以上のものにはならない。ほんとうに苦しいときに一般論を言われても、わたしの事情はそうじゃないんだという反駁を繰り返すだけになり、結局は相談の体をなさない。じゃあ愚痴を垂れ流すことによって感情的な側面だけでも解決すればいい。ところが、愚痴が相手に与える負担と愚痴の持つ一般的な悪印象から、理性はなかなかそれに踏み切らせてくれない。何も言わずただ憔悴するばかりでは、そりゃあ心配にもなるだろう。
または例えば、緩く繋がっている仲間たちのひとりと揉めたときにも、普段から口も軽やかに自己拡張にいそしむ人が相手だと苦労した。相手の雄弁な主張ばかりを一方的に聞き入れた挙句、どうやら偏見に凝り固まってしまった人もいなくはなかったが、幸いなことにわたしを取り巻く仲間たちのほとんどは、十分に知性に溢れ上品だった。ただそんな彼らでも、事情の本当のところを推し量るために、双方から主張を聞くことを好んでいた。何も主張しない、揉め事が存在していることすら告げないわたしに不満顔を見せた人もいた。あるいは、自分でなくてもいいけど誰かには話せよ、と控えめな気遣いをする人も。
問題が起こったとき、問題そのものや当事者が与える圧力に耐えるのはまあ当然のことなのだが、問題の存在を察した周辺の人々の視線はつねに遣る瀬ない。というよりも語らないという不義理を申し訳なく思っていた。友人関係のなかで与え合う個人情報の量は、必ずわたしのほうが少なくて、釣り合いをとらなければならないという感情から自分のことを話しはじめることが何度もあった。自発的に喋るわけではないから、内実は当たり前だが隠された。ただ、あやふやな情報の断片から内実を見事に復元しているらしい人も、僅かながらいるのが心強い。あるいは、どんな情報が出回っていても、視線が揺らぐことがない人も。おそらくこれを読むだろう。普段ほとんど語らないけれど、あなたのことを頼り甲斐がないとは決して思っていない。あなたが存在しているというだけでわたしはずいぶん助かっている。メールでの快活なわたしとここでのわたしとは、どちらが核心に近いということはない。