クロード・レヴィ=ストロース「悲しき熱帯(2)」

Claude Lévi-Strauss「Tristes Tropiques」


一体、馴れ親しんだ環境や友達や習慣を棄て、こんなにも大きな経費と努力を払い、健康まで危うくした挙句の結果というのは、たったこれだけのことなのだろうか?調査者が一緒に居ることを許してもらっている一ダースほどの、まもなく死滅する人たちは、虱を取り合ったり眠ったりしてほとんどの時を過ごしているのだが、彼の仕事の成否はこの人たちの気紛れ次第という訳なのだ。…………私もかつてそうだったように、政治に関心をもっていた連中はもう議員で、やがて大臣というところだった。そして私はといえば、僻地を走り回り、人類の残り滓のようなものを追い求めているのだ。…………私の決定は、どのみち、私が次第にそこから離れて生きることになったはずの、私の属していた社会集団との深い違和を表わしていたのだろうか?奇妙な逆説だが、私の冒険生活は、一つの新しい世界を私の前に開いてくれる代りに、以前の世界を私のうちの甦らせ、一方では、私の希求していた世界は私の指のあいだで崩れかけていた。私がその征服を目指して旅立った民族や景観は、それを私が手に入れた時にはもう、私の期待していた意味を失おうとしていた。そして、目の前にありながら私を失望させたものの姿に代わって、別の、私の過去が仕舞い込んでおいた、しかも私を取り巻いていた現実にまだ繋がっているあいだは私が一顧も与えなかったものが、形を現わしてきたのである。(p.353)


レヴィ=ストロースは、彼の調査隊に帯同した現地ブラジルの学者たちに言わせると、調査をする者として優秀だとは言い難かったらしい。また、この「悲しき熱帯」に掲載されている先住民の写真についても、彼が非常に嫌ったはずの恣意的なトリミングが施されていることが明らかになっている。(「サンパウロへのサウダージ」による。)まあ確かに、調査の途中に調査地域とは別の世界のことを考えているのだから、不真面目といえば不真面目だ。ただ彼は、ブラジルの未開地域のまだ野生状態の文明のなかに、複雑化する前の文明構造の祖型を見出して、それを自分の育った文明に適用してみたいという欲求を、こらえることができなかったんだろう。わたし自身も読みながら、ずいぶん自分の文明について考えさせられた。


宣教師たちは、ボロロ族を改宗させるのに最も確かな遣り方は、彼らの集落を放棄させ、家が真っ直ぐ平行に並んでいるような別の集落にすることにある、ということを直ぐに理解した。(p.49)
文明が野生状態から栽培種化するにつれて、都市構造の依拠する論理がうつりかわってゆくのはおもしろい。ボロロ族の場合は原始宗教、中東地域のいくつかの古代文明の場合は天文学と神話、平安京の場合は風水学と権力。宗教性がさほど考慮されなくなった後は、封建では防衛、近代では交易。資本主義が台頭したと同時に都市構造が発達したアメリカでは、大雑把な直線道路と燃費の悪い爆走型車両がつくられ、高度情報社会の台頭と同時に国力をあげた韓国では、都市のコンパクト化と情報インフラの発達がめざましい。


また婚姻についても。多くの部族で首長が特権的に一夫多妻だったのだけれど、それでは部族内で男が余ってしまう。その余剰は、同性愛によって解消したり、妻のシェアをおこなったり、部族によって異なる形で補填されていたらしい。今や先進国のほとんどは一夫一妻で、しかもたいていは性愛に結びつけて捉えられるけれど、それはひょっとしてカトリックの陰謀なんだろうか?日本は西欧化と同時に、一夫一妻や性愛に基づく婚姻を受け入れたけれど、(以前は権力者は一夫多妻だったし、婚姻は家と家同士の結びつきだった、)西欧的な価値観は、キリスト教的なものの影響を否定することができない。たとえばイスラム教圏では、一夫多妻制が現在でも受け入れられている。
ブラジルの先住民族は、ずいぶんと単一で退屈になってしまった現在の婚姻制度に対して、新しい視点を提供してくれる。婚姻に対して性愛の結びつきをわざわざ遡及するのはもはや抑圧だと思うのだが(家と家との結びつきという価値観を離れると、見合い結婚よりも恋愛結婚のほうが好ましいと思われやすい)、そんな抑圧を与えるのなら、発生してしまったすべての性愛について婚姻を認めてあげてほしい。つまり、同性愛者たちのことだが。彼ら(彼女ら)の婚姻を認めずして、何が彼らの関係を保証するというのだろう。カントが婚姻を「互いの性器の使用に関する契約」というのなら、その性器が同じ形であってもいいではないか。彼らは出産をしないから、家族制度に頼ることができないし、逆に彼らを認めることが、家族制度に引導をわたすことになるだろう。


文字について。レヴィ=ストロースが絵でコミュニケーションをとろうと、紙と鉛筆を先住民にわたしたとき、首長だけは、非常に頭がよいことを伺わせる反応を見せた。彼が適当な形を紙に書き、それをレヴィ=ストロースが理解しているという振りをするというコミュニケーションを発生させることに成功したのだ。実際は、通訳者が音声を通訳して意味を理解したにすぎなかったけれど、首長は文字の機能の一端を理解していた。
……文字は、ナンビクワラ族のあいだに出現したわけなのだ。ただ、人が想像し得たかもしれないように苦労して習った挙句に、ではなかった。文字というものの実体は不明なままに、その象徴性が借用されたのだ。しかもそれは、知的な目的のためというより、社会学的な目的のためにであった。知ることや記録することや理解することが問題だったのではなく、或る個人──というより、或る役割──のもつ特権や権威を、他の者の犠牲において増大させることが求められていたのだ。(p.201)