斎藤環「博士の奇妙な思春期」



最近、芸能ゴシップで、誰それが難病にかかったとかいう類いの報道が増えた気がする。本人から発信されることもあるし、マスコミの調査によることもある。ネット上ではしばしば売名行為だと揶揄されているが、結果としてたしかに売名は成功しているけれど、それだけが目的ならば、もっと前向きな情報を流布したいところだ。少なくとも、共感してもらえる程度の不幸がいい。それなのに敢えて特殊な過去が選ばれるのは、本人が発信源であればそれがプロモーションとして利用価値があることが実証されているから、マスコミの調査が発信源であればそれが部数(視聴率)を伸ばすから、いずれにしても、受け手側がそういうものを求めているということが大前提となっている。この事態は双方の合意がなければ成立しない。
たとえば現役で活躍している人が難病の治療譚を語ると、それだけで、彼がふかい悲傷を克服したという物語が仄めかされる。彼は物語すべてを語り尽くす必要はまったくない、ただひとつの治療経験だけで構わない。物語が存在することがわかっただけで、人物像は一気に深みを増す。しかも難病が効果的である点は、それが本人には一切責任のない、逃れられなかった悲傷である点にある。難病はよく条件のととのった外傷なのだ。
もちろん、彼のその体験談を糧にして私もがんばろう、などという素朴な人もいるんだろうし、彼が特殊な苦難に苛まれたのは事実なのだから発言しても構わない。ただ、かつては、芸能人は私生活を一切見せない、私情を語らないことが当然であったし、熱愛スクープも当然のことながら否定していた。その空虚さが、偶像化のしやすさにも繋がっていたし、たとえば役者や歌手として演劇空間に入るときには、その空間で一度限りの虚構を作りあげるのには都合がよかったはずだ。いまどきのテレビドラマの視聴者は苦労しているんじゃないだろうか。同じテレビの別の番組で役者の物語を押し付けられ、なおかつテレビドラマ内の物語も受け入れよとは、虚構へ親しむ方策がどう考えても高度すぎる。映画館のように空間的な補助がないと難しいんじゃないだろうか。
そんなリスクをおかしてまでも、物語が欲しいのだ。


難病というわかりやすい外傷に比べると、他の多くの外傷経験はひとことですべてを語り尽くせるほどの効果をもたらさない。けれど、最後に自殺を選べば、難病以上に雄弁な物語を存在させることができる。(斎藤曰く、「もっとも陳腐化を抵抗する物語のひとつ」。)ただまあ自殺だと本当に死んでしまう。難病と同じように、受信者が発信者の物語の存在を確認し、そのことによる受信者からの支持を発信者が期待するのであるなら、それは自傷行為にとどめておかなくてはならない。
リストカット自体は最近になって増加したというものでもなく、単に露出が増えたから増加したように見えるだけらしい。女性が8〜9割で、中流家庭以上の高学歴女子が多い、その他、リストカットに陥りやすい類型というのは統計的に明らかなんだそうだ。彼女たちが罹患した背景に共通した点が多く見られる以上は、その治療方法は共通のものを採用しやすい。つまり、診療マニュアルを体得した心理カウンセラーなり精神科医なり、プロフェッショナルに治療を委ねるのが望ましい、もしリストカットを止めたいのならば。
彼女自身もおそらく、リストカットに受け皿があることは知っているだろう。でも、彼女が手首を切ったあとで真っ先に連絡するのは、心理カウンセラーでも精神科医でもなくましてや外科医でもない。彼女は、とにかく自分の物語を知らしめたい。しかも、それが特殊な外傷によるものでなければやりきれない。自分の持つ物語はオリジナルであってほしい、だから、他の数多くの物語を知っているプロに連絡をとり、汎用性の高い治療方法でなおってしまうのは困るのだ。だから彼女は、他の物語を知らず、しかも普段から自分の物語をよく聞いてくれていた素人を選んで電話する。実際、ある時点でプロに連絡をとることができたなら、その症状はもう快方に向かっている。(たぶん精神疾患の大部分は、自分が罹患していると自覚することが治療への第一歩ではないだろうか。)もっとも、リストカットそのものでは死なないので、無理してでも止めさせる必要性はそもそも感じないのだが。
悩み相談にどう対処するかについて、いろいろ考えさせられる。ただ聞くだけでいい意見は言うな、という教訓はいろんな人が遵守している。そんなこと悩んでも仕方ないよ、って相手の悩みを却下するな、というのも個人的には肝に銘じた。たまに辛抱強く共感を示していると、あなたにわたしのことが分かる訳ない!という態度をとられることがあって、あれが特殊な物語への執着なんだろうけど、あの牙城はなかなか手強そうで、攻略のルートが見つからないままだ。


斎藤によると、特に宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件以降、報道番組における心理分析のしめる割合が増えたらしい。つまり、犯行にいたるまでの物語を提示し、それを分析にかけ、あわよくば社会学的に解説したい。「社会の心理学化」。ミステリでワイダニットが好まれ人間が描けているかどうかが重要な判断基準になったのと似ていて、とにかく決定的な瞬間に至るまでの物語が欲しいらしい。
逆に最近だと、秋葉原無差別殺傷事件のように、明らかに事後に社会学、心理学的に語られることを前提としておこされる犯行すら出てくる。あの事件は実際には無差別でも何でもなかった。殺意がわいた瞬間に手っ取り早く殺せる人を殺した訳ではなく、わざわざ人の多い秋葉原に出向いたのだから。自分の殺人行為を、秋葉原の持つ意味に遡及してほしかったのは明らかだった。


この本は章ごとにテーマが違うのだが、各テーマがさほど深く掘り下げられないぶん、思考のヒントがたくさんちりばめられている。そのうちのひとつを、ここにメモしておこう。
「性・死・お金」が家族のあいだでだけ、とりわけタブー視されるのはどうしてだろう?
テレビドラマのラブシーンは家族で見ているときがいちばん恥ずかしい。家族の誰かが大病で入院したときですら、死は話題から避けられる。お金について、財産額や家計や貯金については親のも兄弟のも知らない。
斎藤は一応の解答を出しているけれど、自分でもあれこれ原因を想像してみたらちょっとおもしろい。


↓何回見てもエグイ表紙です。ショタコン垂涎なのらしい。