ジャック・デリダ「精神分析の抵抗 フロイト、ラカン、フーコー」

Jacques Derrida「Resistances of Psychoanalysis」


わたし心理学って好きじゃない。心理テストとか夢判断とか答えると、あなたは本心ではこう思っています、っていう結果を告げられるでしょ?そんなこと言われてもさ、思ってないなんて言えないよね、だって本心なんてわからないじゃない。そうすると、そうなのかなぁってあいまいに返事するしかないんだけど、そういうふうに、同意を無理にさせる感じがやなんだよね。
というようなことを数年前にある人が言っていたのを思い出しながら読んでいた。(日常会話なので、いろいろな誤解は脇におく。)デリダの言う「精神分析の抵抗」は多重の意味をもつけれど、そのうちのひとつは、精神分析を受けた患者の側がしめす抵抗のことだ。臨床の精神分析はもちろん心理テストほどには単純でなく、回答と診断結果が1対1に対応するようなことはない。患者と医師との間で何度も対話が繰り返されたあとに、医師が精神疾患の原因をつきとめ、それに対して診療をほどこすという作業がおこなわれる。医師と患者の対話のなかでは、よほど従順な患者でない限りは、患者が医師の発言に違和感を抱くことはあるだろうし、その違和感を表明するか、隠しておくかも患者の裁量次第だ。患者たちはありのままを語っているわけではない。診療記録が、症例として実証性をもつかどうかは、確実じゃない。
フロイトは患者の診療記録から導かれた洞察を人間全体へと拡大して、その成果がこんにちの精神分析の土台になっているけれど、もし記録そのものの信頼度が担保されないままだったとしたら、精神分析は学問として成立していないはずだ。じゃあ実際、誰が担保しているのかというと、それはフロイト自身なんだと思う。包括的な精神分析学をつくりあげるのには、当然いくつかの症例を演繹に使っている。(しかも演繹という手法上、精神疾患者という特殊ケースばかりを使っている。)そのいくつかの症例について共通であるのは、医師がフロイトであったこと、これがいちばん大きい。フロイトは無意識の領野を扱ったから、フロイトが患者の無意識のなかに見出したことが正しいかどうかを裁定できる者は誰もいない。ただ、診療記録として書き留められ残されたのは必ず、フロイトの提示した見解だった。だから、診療記録が症例として実証性を持つとしたらそれは、フロイトがそう判断したという事実、フロイト自身の思考の軌跡としてであり、患者は単に彼の像をうつしこんだ鏡であったにすぎない。


「私はだから私の患者であるイルマを他の二人の人物と比較していたのであり、この二人はいずれも治療への抵抗を見せていたのだ。夢のなかで、なぜ私は、彼女をその女友達と入れ替えたのだろう?おそらく、入れ替わった方がいいと、私が考えたためだろう。もう一人の女の方が私により強い共感を呼び覚ましていたのであり、彼女の知性を、私はより高く評価していた。実際私はイルマを馬鹿だと思っていた、何といっても、私の解釈を受け入れないのだから。もう一人の女性の方が利口だったにちがいない、彼女ならもっと早く言うことを聞いただろう。そのとき、口は大きく開く。彼女はイルマより多くを言ってくれたにちがいない。」
フロイトは、このようにして、ある法則の事例を与えているのである。どのような法則かというと、あなたの解決を受け入れない誰彼の留保を、分析への、解決への、解消への抵抗として解釈することを、一般的に命ずるような法則である。(……何を分析するにせよ、誰を、誰のために分析するにせよ、およそ分析するということは、他者に対して、次のように言うことを意味するのである。私の解決を選びなさい、私の解決の方を好みなさい、私の解決を取りなさい、私の解決を愛しなさい、私の解決に抵抗しなければ、あなたは真なるもののうちにいることになるでしょう。……)(p.25)


フロイトは彼の解釈を受け入れることが、患者が精神疾患を直すのに不可欠だと信じていたから、彼の解釈を受け入れない患者のことは、治癒を自ら阻害してしまう愚かな者だと思っただろう。素直に言うことをきかない患者、自分の精神状態を直視したがらない患者だと。でも実際はフロイトは「同意を無理にさせる感じ」を患者に与えていた、彼の解釈に従うよう抑圧してしまっていた面が必ずあるはずだ。その抑圧に対して発せられる患者の抵抗は、治癒への抵抗といったものではなく、フロイトに対する直接的な抵抗、彼の解釈を支える知識体系に対する抵抗だと思う。
冒頭の心理テストの例でも、不満はテストの診断結果に向けられているのではなく、テストそのものに向けられている。そりゃあ巷の心理テストなんてエンターテインメント性が何より大事だし信用度は薄いからさ、なんて言ってしまうと簡単だけど、でも精神分析もごく初期、フロイトの頃は、蓄積がないから信用度もなかった。フーコーは「狂気の歴史」で、精神疾患者のいる監禁施設で医師が治療をほどこすとき、精神科医は医師であるというより魔術師であるようにふるまった、と看破したけれど(2008.12.18memo)、それは信用度を上げ患者の抵抗をなくさせる手段だったんだろう。デリダは言う、「虚構的全能と、神的な、「疑似-神的な」、模像=擬態(シミュラークル)により神的な、同時に神的かつ悪魔的な力、それらがまさに、これ以後、医者の顔がまとわされることになる<悪しき霊>の顔立ちなのである。(p.178)」


患者の治癒にとって有益なのは、疾患の原因が明らかになり、それに対して適切な治療がほどこされることだ。そのためには対話において、患者が何の抵抗も感じずありのままを語れるほうがいい。つまり、医師は何の抵抗も与えない、できるだけ透明なガラスのような存在であることが好ましいだろう。一方で精神分析学の症例としてならどうなんだろうか。もし診療記録の実証性が、フロイト自身の思考であることに重きをおくのなら、患者はできるだけ曇りのない、医師のよい鏡であるべきだろう。医師におおいに語らせ、診療記録を医師のことばだけで埋め尽くし、自分の考えを一切さしはさまず、医師の意見を肯定も否定もしないような。彼はバートルビーだ。彼は「I would prefer not to.」と何度も繰り返すだけで、肯定も否定もしない。雇用主の法律家は彼をどうすることもできず、彼にさんざんに振り回され、彼のことばかりを悩みつづける。法律家が彼について考えたことを綴ったのがメルヴィル「書記バートルビー」で、それは法律家の手によるバートルビーの診療記録となる。


反復強迫は、非-抵抗の誇張的抵抗は、それ自体分析的であり、それは今日、精神分析がその抵抗を代理表象しているものであると。……応答せずに応答し、諾とも否とも言わず、受け入れもせず反対もせず、それでも話すことは話すけれど何一つ言わない、「書記バートルビ−」のように。……彼が、自分からは何も言わずに他人に話させることもご存知だろう。それもまず第一に語り手を、責任ある法律家であり倦むことなき分析家でもある語り手を、倦むことなき分析家、実は治癒不可能な分析家である語り手を。(p.49)