斎藤環「戦闘美少女の精神分析」



テレビアニメのシリーズが切り替わる時期に、次の放映予定アニメを一覧したウェブサイトをチェックすることがある。Gigazineとか。一望すると、いま製作されているアニメの傾向がわかるのでおもしろい。いつのシーズンだったか忘れたが、空から女の子が降ってくるという設定ばかりがずらりと並んだときがあって、苦笑してしまった。斎藤曰く「同居系」、異少女が平凡な日常生活に闖入してくるストーリーのことで、元祖は「うる星やつら」、最近だと…たくさんありすぎるのだが…「To LOVEる」。「To LOVEる」は女性の身体のデフォルメ表現が、解剖学的にかなりナチュラルで巧いので好感を持っているのだが(そうは言っても1話見るのがやっと)、他のかなり多くのアニメについては、もうイメージ表現についていけないという自覚がある。同じく女性の身体のデフォルメでも、ボール2つを胸部にはりつけてセクシーさを意味させるというのは、すでに理解の範疇を超えてしまっている。記号的な表現に移行しつつあるんだろうか、瞳の描き方がそうであったように?昔から、なんでアニメで射精することができるのか不思議だったけれど、ボールで抜けるなんてほんとに凄い。凄いというのは皮肉でもなんでもなく、文明進化の度合いはある程度は虚構性を物差しにして推し量れるから、そういう意味で高度に洗練されているということだ。「描かれた金銭、描かれた権力に欲望しないのに、描かれた裸体には欲望する」と斎藤は言う。虚構に対する親和性の高さは、そこに性の問題が介在していることを匂わせる。
一般に「マニア」「ファン」と呼ばれる人の興味対象には、切手蒐集・アイドル・カメラなど、実物が伴うことが多い。「おたく」と呼ばれる人の興味対象には、アニメ・エロゲー・漫画など、虚構の度合いが高いものが多い。あるひとつのことに熱中している人たちのなかでも、おたくとして共通認識されるのは、虚構への親和性の高い人ではないか、と斎藤は言う。おたくの人たちが二次創作やコスプレに励むのは、良い例証のように見える。(親和性の高さは、だからと言って、虚構と現実を混同してしまうということではない。彼らは、アニメの美少女に萌えている自分自身を冷笑しているし、コスプレも適度にうさんくさい布地を使って製作しているように見える。虚構に対してあきらかな距離感を持つからこそ、好きなアニメの登場人物同士のやおいも平然と描いてのけるし、その妄想をコミケで公表してしまう。)


こうしておたくと性の問題とが連結されたのちに、主にアニメの系譜で頻繁に登場する「戦闘美少女」についての分析がはじまる。斎藤は戦闘美少女を「ファリック・ガール」と命名する。「ファリック・マザー」という、権威的にふるまう女性を指すフロイトの用語をもじっているのだが、それに比べると外傷性の無さ、無垢さが特徴となる。たとえばファリック・マザー、「キル・ビル」のザ・ブライドは家族を殺された外傷経験を持ち、その復讐で戦闘行為にうってでる。でもファリック・ガールには戦闘行為の動機となるはずの外傷経験が無い。「最終兵器彼女」のちせはあまりにも無垢な少女で、本人にはなんの動機もないまま戦闘行為におよんでいる。斎藤は戦闘美少女の代表格として「風の谷のナウシカ」を挙げるが、ナウシカも、物語の冒頭で父親を殺されはするものの、その後の戦闘行為の動機は復讐ではなく、外部からの襲撃に応戦せざるを得なくなったという事実だ。
ファリックphallicとはファルスphallus、すなわち象徴的には男根、男たらしめるシンボルのことだ。斎藤が戦闘美少女を「ファリック・ガール」と命名したとき、彼は彼女らをファルスと同一視している。ファリック・ガールが外傷のないまま戦闘に赴くのは、敵がいないのに去勢不安にかられる少年たちの代償行為であるように見える。ファリック・ガールのそばにはよく、弱い少年が配されるが、彼らの怯えは基本的には去勢不安だ。「新世紀エヴァンゲリオン」の碇シンジは父親をしきりと気にかけ、強さや成長に対して過剰なまでに敏感だった。彼の隣にはともに戦闘に赴く少女が2人いるが、彼女らのうち綾波レイのほうがおたく人気が高かったのは興味深い。内面描写をはぶいた彼女の空虚なキャラクターは、ファリック・ガールすなわちファルスが空虚であることによって、少年たちが怯えていたファルス不在=去勢不安によく同化していた。彼女が戦闘に赴いたのは、不在のファルスを克服しようとする少年たちの闘争を代償していたんだと思う。
少年たち、とつい言ってしまったが、もともと去勢不安はフロイト的にはごく幼少期にあらわれる症状のことを差している。おたくと称される人々はまあ概して成人なのだが、3次元がダメだとか童貞(処女)だとか、第二次性徴期以降の性の発育について揶揄されることがしばしばある。彼らは、虚構への高い親和性を武器に、自分がかかえた性の問題をファリック・ガールとともに昇華しているのではないだろうか。
…という理解でおおむね正しいんでしょうか。


ヘンリー・ダーガーの絵は2007年の原美術館の展覧会で見ている。色の薄い輪郭線と淡い色調の水彩で、残酷な世界創世記を長尺の画面に描いている。幼く無垢で何故かペニスのついた少女たちが画面にあらわれて、残虐な戦闘行為をおこなう。ダーガー自身はつとめて対人関係を避けた生活を送り、彼の妄想世界を孤独に描きとめつづけた。斎藤は、ダーガーと少女たちとの関係を、おたくと戦闘美少女との関係になぞらえる。


これだけまとまったボリュームのおたく論を読むのははじめてだ。斎藤環は気になる論客のひとりで、たまにテレビの討論番組に出たり雑誌に短いコラムを寄せていたりすると、ついついチェックしてしまう。中井久夫への敬愛をかくさず、角川春樹をうまく転がし(en-taxi、角川句会手帖)、茂木健一郎を完膚なきまで叩きのめした上に退路も用意せず(双風舎ウェブ往復書簡)、そのことを菊池成孔を相手にぼやいている。オトナなんだかコドモなんだかわからない身振りも魅力的だし、ラカンの限界を知りつつもそれを生きるしかないという態度も屈折してはいるものの誠実で、実際ずいぶん彼の意見には頷くことが多かった。
おたく論は、オタキング岡田斗司夫のお陰でなのか、社会問題の元凶みたいに論じられた経緯からなのか、ずいぶん裾野が広くてバックグラウンドに乏しい人たちも積極的に参戦しているように見える。この本も、すでにアニメを大量消費した人にとっては理解できる部分が大半だし、なにしろこのカバーデザインだからいろんな人が手にとっただろう。しかし、ヘンリー・ダーガーというハイブロウな現代美術を対置した上、後半からはラカン精神分析のフルスロットルだから、アニメ資料を分析している章と結論を導きだしている章とは、論を展開する次元がまったく違う。amazonのレビューが微妙に荒れているのはそのためだろう。アニメ資料の分析についてはおたく論周辺の人たちは不備を指摘できる立場にいるけれど、ダーガーやラカンは理解しにくいし何より学術用語の深みを知らない。だから彼らは、博識と無知の双方向から叩く。


※去勢不安の用語の使い方がたぶん違う。幼少期に被るのが象徴的去勢で、そのあとは去勢不安に陥っているというのが正しそう。