クロード・レヴィ=ストロース「悲しき熱帯(1)」

Claude Lévi-Strauss「Tristes Tropiques」


「私は旅や探検家が嫌いだ。……」


この手記の筆者が冒険も旅行も好きではなく、世界中のあちこちで外交的に振る舞うということが性に合わない人間だ、というのは読んでいれば誰もが理解するところだ。彼に似合うのは、ひとつの場所にとどまり、静かに思索を重ね、知性ある友人と語らい、本を読み、孤独に研究を積み重ねること。それなのに彼は、見知らぬ世界へ旅立つことをいとわなかった。自分の思考様式が、常に未知のものを摂取することによって発展していく性質であることを見極めて、それまではさほど興味もなかった人類学の実地調査へと身を投じた。哲学をおさめ法学部に在籍し、いろいろな探求対象への俊巡を経ているうちに、早々と成果をおさめつつあったのにも関わらず。「悲しき熱帯」は、知的探求そのものの性質や意義に思い迷いながらも20世紀を生きた、あるひとつのすぐれた知性の述懐だ。この時代、西欧文明が世界の果てまで触手をのばして覇権を握り、その内部でも爛熟をきわめた。それなのに彼は、文明の外縁にいても直中にいても、冷めた眼を失わない。彼自身の研究は時代の最前線にあったのに、思索の地点は彼岸にあって、自分の身振りを見失うことがない。過ぎ去ったことに対して、すこし感傷的にはなったけれど。この本が出版されたのは1955年、レヴィ=ストロースがブラジルを離れてからもう10年以上が経過していた。


彼は、ブラジルの未開の地への実地調査に赴いても、調査対象の探求ばかりに傾倒する訳ではない。探求そのものの影響力や意味についても、思索をめぐらすことを忘れない。彼は、自分の調査隊が先住民の村落へ足を踏み入れることが、その民族の文明が滅びゆくのに加担してしまっているという事実に、あらかじめ気がついていた。調査そのものが調査対象を破壊する暴力をもちうること。先住民が顔にほどこす美しい文様と祭礼での鮮やかな衣装を記録に残すとき、先住民らは彼に、調査協力への対価をあらかじめ期待していた。写真にとられることを待ち望む彼らの前で、彼は空シャッターを切りつづけるしかなかった、フィルムの無駄遣いを気にして。そのようにして調査隊向けに過剰に演出された先住民たちの風俗を、彼は余剰を取り払いながらも自らの研究の糧とする。彼に先行した調査隊たちが遺した悪習を嘆きながら、そして彼自身もその悪習を引き継ぎながら。先行した調査隊たちはもちろん多くが学術目的であったが、彼らが先住民の風俗を資料として撮影するとき、ありのままの姿を撮らなかった。彼らの文化が置き去りにしたブリキ缶や針を先住民が流用して生活にとりいれているのを、構図からはわざわざはずしていたのだ。商業探検家ならばなおのこと、構図決定の意図は明瞭だった。先住民の文化のイメージを、彼ら西欧文化にとって都合がよいように切り取り、それを手土産として自国に持ち帰る。多くの人々が手土産に群がり、金を払ってそのイメージを鑑賞する。野生の文化を搾取し消費してしまう、サイードも恐れたように、彼らはまったく自覚なしに、ブラジルの豊かさを占拠してしまう。「旅よ、お前がわれわれに真っ先に見せてくれるものは、人類の顔に投げつけられたわれわれの汚物なのだ。」ブラジルの未開の地に足を踏み入れるとき、彼は自分の足によってブラジルを蹂躙していることに気がついていた。


……こうして私は、すべての問題は、重大なものでも些細なものでも、いつも同じ一つの方法を適用することによってけりをつけられるということを学んだ。その方法というのは、問題の伝統的な二つの見方を対置させることにある。まず、常識を正当化することによって第一の見方を導入し、次にその正当化を第二の見方を使って崩し、最後に第一と第二のものが、いずれも同じように部分的なものであることを示す第三の見方の助けを借りて、どちらにも優位を与えることなく、退けてしまうのである。第一のものと第二のものは、言葉の技巧によって同一の実在の相補う二つの側面に還元することができる。たとえば、フォルム(形)とフォン(内容)、コントナン(含むもの)とコントニュ(含まれたもの)、エートル(存在)とパレートル(外見)、コンティニュ(連続)とディスコンティニュ(不連続)、エッサンス(本質)とエグジスタンス(実存)など。こうした修練は、思考する代りに一種の駄洒落を弄することであり、つまりは言葉の上だけの問題になってしまう。すなわち、それは用語のあいだの類音、同音、多義などといったことであり、それらは次第に純粋に思弁的な見せ場を作り出すのに役立つことになり、立派な哲学の研究とは、それを上手に行なったものということになるのである。ソルボンヌでの五年間は結局、この「体操」の修練に充てられたということができる。しかし、この体操の危険性は明白である。まず、これらの観念再構成の方法は極めて簡単なので、この遣り方で取り組めない問題はないからである。(p.72)


知的探求そのものに常に自省的であるのに共感する。自分自身が、世界に対してどう向き合っているのか、どう向き合っていったらいいのか、考えつづけているように見える。探求にあまりに没頭すると、その探求そのものの性質や意義を見失いがちだ。そのなかで行う様々な判断や裁定について、自らの基準の妥当性を疑うことを忘れてしまう。根拠がきちんと論理づけられていないままでも流されてしまう。特に、たとえば芸術のように、合理性を根拠とすることのできない分野の探求の場合は、いくつか形を作り出したり作り変えたりする中で提示される最終的な形が、どうしてここで最終としたのかの根拠、作り変えを決めた判断の妥当性、そもそも最初の形を思いついた由来、それらすべてがあまりにも明快でない。その不明快ぶりを、気にせずに放置するか、それとも問い続けるか?自分の在り方に疑いをはさまず無条件に世界に投射してしまうのが良いことだとは、レヴィ=ストロースは思わなかったし、わたしも思わない。それは、世界に対する誠実さと敬意なんだと思う。