杉浦勉「霊と女たち」



スピリチュアルなんて言うといかんせん胡散臭いし、フェミニズムなんてのもついつい敬遠してしまう。それなのにこの「霊と女たち」、書店帰りに立ち寄った日曜のSTARBUCKS COFFEEで、ワンシッティングで読了してしまった。面白いなあ。異端審問とか伝奇とかおどろおどろしい歴史をあつかっているから、博物誌や民族誌をひもとくときについ感じてしまうエキゾチックなものに対する好奇心を満たしてくれて、そうでありながら、分析にはフーコーやイリガライら西洋哲学のフレームを使っているから、論理的なことこの上ない。
本書は、独立性の高い12の章で構成されている。共通しているのは、男性中心の旧来の社会体制のなかで、女性がうみだしていた相補的な体制の、成立のメカニズムと役割を、スピリチュアリティセクシャリティを使って論じていること。男根中心主義=ロゴス中心主義というのは、ことばと論理によって明快に説明し尽くせる、理性の光にみちあふれた世界のことだ。でももちろん日常生活のなかでは、どうしても説明不可能なことが起こっている。ラップ現象や心霊写真、自分自身の精神状態や狂気、中世ならば錬金術や両性具有や日蝕、そういうことすべて、そもそもは説明不可能な現象だった。理性の光をあてることができないうちは、それらをとりこぼさないためにも別の秩序を必要としていて、それが女性を中心とした体制によって達成されていたのだと思う。フーコーは晩年にこれを、「認識的な知」に対置して「霊的な知」と呼んだのだそうだ。


時代と大陸を越えた「ふたりのテレサ」についてえがかれた章がとても美しい。時と場所をゆらゆらと巡って、杉浦の掌中で酔うことができる。
ひとりめのテレサは、16世紀スペインに生きたテレサ・デ・アビラ。彼女が享けた神のことばを記したとされる「人生の書」で知られる、霊的な指導者だった。遺体が腐敗しなかった、という伝説が残っていることから考えても、その権威たるや推し量れよう。彼女はゾシマ長老とは違うのだ。彼女が手記のなかで明かす神との接触は、神との交合と言っていいほどに、セクシャルな記述であふれている。「……天使は、わたしの心臓にいく度か、その矢を刺していました、矢は内蔵まで達しました、そして矢を抜こうとすると、一緒に内蔵もとり出してしまうようでした、わたしは神へのおおきな愛につつまれ、燃えさかっておりました。……何度もうめき声をあげるほど苦痛はおおきく、このおおきすぎる苦痛のためにやさしさがはげしく満ちあふれました。……」霊的な合一が性的な合一のように描かれ、霊と性とがきわめて近い位置にある思想だったことがわかる。神との合一によって、彼女は一気に旧体制の頂点近くまで駆け上がる。しかし重要なのは、彼女の地位はあくまでもカトリック教会の体制を崩さないように、周到に演出されていたという点だ。この彼女の手記は、教会所属の男性たちによる校閲を経てから世にだされている。教会側の直接的な介入ばかりではない。彼女は、当時おこなわれていたスペイン異端審問を極端におそれていた。校閲の過程で手記には、聖書の教えを踏まえたと思われる部分が、追加稿として挿入された。また彼女自身も、自分ごときは無力な存在であるということを、つねに主張した。
15世紀から17世紀にかけてのスペイン異端審問は、ユダヤ教徒をスペイン領土から根絶するべく、国王勢力とカトリック教会とが結託して組織的におこなわれていた。反カトリックの小教団も対象にしていたそうだ。彼ら体制側は、カトリックへの改宗か国外追放かどちらかを迫り、従わなかった者を火刑に処す。故人ですら墓からわざわざ遺体を掘り起こして火刑にしたのだから、徹底ぶりはすさまじいが、宗教裁判所がここまで厳格に処刑や拷問をおこなったのは、最初の20年に集中しているのだそうだ。娘の密告によって火刑に処された母の挿話がでてくるのだが、やりきれない思いがする。ユダヤ教にこだわり続ける母親を、キリスト教で矯正されて育てられた娘は疎ましく思ったのかもしれない、と杉浦は推測している。いつも同じ時間をすごしている自分の家族でさえ密告がありうるのだから、処刑数が落ちついてもなお、異端審問は不可視の恐怖として、君臨しつづけたろう。
ふたりめのテレサは、19世紀メキシコに生きたテレサ・ウレア。クランデーラcuranderaとして、霊的な治療行為をおこなっていた。平凡な少女だった彼女は、父親にひきとられてまもなく、霊的な能力を短期間のうちに発現する。クランデーラの老女に手ほどきを受け、テレサのヒーリング能力と予知能力は非常に高まり、地域一帯の聖女として祀り挙げられていた。政府反乱軍が彼女を旗印にしていたため、彼女は隣国アメリカに亡命せざるをえなくなり、父親同行のもと、アメリカで富裕層相手の治癒をおこなうことになった。報酬はうけとらないという前提で。彼女が製薬会社と商業的なヒーリングツアーの契約をし、報酬をうけとることに同意したのは、父親と訣別してからだった。彼女の数奇な生涯は、霊的な治療師として聖女のようにあがめられていた時期と、父親の庇護下にいた時期とが一致することによって、特徴づけられている。家父長制度の下にいたときにだけ、霊的な権威としてふるまえるということは、霊性があくまでも旧体制のなかでのみ地位を持ちうる、ということを否応なしに示してしまう。(ところで杉浦は、彼女のおこなった治療行為の科学性や、奇跡の信憑性についてはいっさい口をはさんでいないが、それは正しい。)


中南米に伝わる「泣き女」、ジョローナLa lloronaの伝説とその伝播についての話が興味深かった。
「むかしひとりの女がいた、ともに暮らす男との間には子ももうけていた、やがて男は女を棄ててしまう、棄てられた女は怒り、絶望にかられ、男への復讐のため、子どもを河へ投げこみ、溺死させる、女は後で自分のしたことに気づくと正気を失い、殺した子どもを呼ぶ声がしばしば夜半に響き、女の姿は河だけではなく湖沼に出没することも多く、子をもとめて水上に浮かぶのを目撃されている。」
先住民族や征服者の歴史のなかで、女性が果たした負の役割が、物語の構造のなかによくあらわれているのだそうだ。フリーダ・カーロのまがまがしい絵を思い出す。彼女には夫ディエゴ・リベラの浮気がまずあり、自身の流産経験が子殺しというモティーフとなって、絵のなかの彼女は「泣き女」にふさわしく涙を流していたんだと思う。カーロは、先住民と入植者との間で生まれたメキシコ女性だ。メキシコが征服者によって植民地化された歴史は比較的新しく、しかも資本主義大国が近接しているから、文化的な多様さをうむ契機はたくさんある。先住民族やトランス・アトランティックのひとびとが文化の基盤をつくり、米北東部からおしよせた白人たちがそれをいっそう豊かにして、重層性は比類ない。


日本に残る伝承でも、霊性にかかわるさまざまなことがらについては、女性であることが多いと気付く。先述のテレサ・デ・アビラは卑弥呼のようだ、彼女が神のことばを語るときもやはり、男の聴き手がそばに控えていた。ジョローナは浮世絵に描かれる柳下の幽霊図を彷彿とさせるが、そういえば幽霊のイメージは女性が多い。そもそも古代においては、親王天皇として治世を、内親王は齋宮として祭祀を司っていたから、役割分担はかなりはっきりしていたと言えよう。
霊と性の関わりについて、例えば宮本常一のフィールドワークによると、民間では夫婦の性行為は神仏を祀ってある部屋でおこなわれていたらしい。もともとは家系をつないでいくという意味合いでの、祖先神に対する敬意なのだが、社寺諸法度ですべての民衆が仏教徒とさせられ、祀るものが一般的な神仏になったあとでも、やはりその習慣は継続されていた。また寺社仏閣への参拝においても、参拝の後に周辺の遊郭でたのしむことが精進落しになる、という考え方があるのは、霊と性の根深さを感じさせて興味深い。
(※上記の日本の事例については裏をとっていません。誤認があれば教えてください。)