ジャン・ボードリヤール「完全犯罪」

Jean Baudrillard「The Perfect Crime」


この本をわたしに薦めた友人は、ほとんど推理小説を読まないのらしい。そんな彼に推理小説を1冊薦め感想をきいたところ、思いもよらない返答があった。ミステリの原則である、一番重要なことを最後の最後まで隠蔽しておく、という形式がなじめないというのだ。正統的な推理小説では最後まで、犯人なり動機なり最も描きたかったことは明かされない。そこに至るまでのあまりにも長いあいだ、一番重要な真実は伏せられてしまうのだから、異常事態なのはまちがいない。
もし仮に、推理小説の結末だけが破り捨てられていたとしたら、その小説世界は、ボードリヤールの考える世界像に近いんじゃないだろうか?結末をなくしてしまったため、一番重要であったはずの犯人なり動機が存在しない。示唆だけはおこなわれるが事実はついに明らかにされない。捜査の端緒となる死体は存在しても、殺人者の存在は破り捨てられて予め抹消されている。真実なのかどうか分からないのではなく、真実がそもそも存在しない状態、それを示唆するものだけがふるまう状態のことについて記述しているという点で。
この「完全犯罪」というタイトルを見てボードリヤール推理小説に手を染めたのだと思ったのなら、それはあながち勘違いではないんだろう。彼は、完全犯罪、つまり動機も犯人も死体も存在しないという状態はそもそもあり得ないと言っているが、それは、何もなければ捜査がそもそも始まらない、ということと同意に思える。この本は、実際には起こりえない完全犯罪を記述しようとしている。


世界が幻想であるという結論は、世界が根源的に未完成であるという事実から生じている。仮に、すべてがすでに完成していたなら、世界の存在する余地はなかっただろうし、不幸にも、世界が再び完成されたとしたら、やはり世界の存在する理由がなくなってしまうだろう。それは、犯罪の本質的規定と同じことである。もし真の完全犯罪がなされたとしたら、そこには何の手がかりも残らないだろう。したがって、世界の存在をわれわれに保証しているのは、世界の偶然的で、犯罪的で、未完成な性格である。それゆえ、世界は幻想としてのみわれわれにあたえられることになる。(p.20)


女性は自分自身を異質な存在に見せようとしていて、男性ヒステリーの側から女性として規定されることをもはや望んではいないので、今度は女性が他者を、誘惑の対象としての他者の新しいかたちを出現させる番だ──男性が女性の誘惑的なイメージの文化を生み出して、そのことにある程度成功したように。………私自身の欲望を演じて利用することのできる他者をつくりだすこと、欲望を先のばしにし、中断し、それゆえ果てしなくかき立てることである。この誘惑者としての他者性と一体化することをもはや望んでいない以上、今日の女性はこの他者性をつくりだすことができるだろうか。(p.276)


現在にいたるまで強力に機能していた、ラカン的な欲望の作用について、ボードリヤールはイメージの文化にまでひきおろして説明した。「他者の新しいかたち」はまだ、せいぜいが萌芽期だと思うが、そのような状況のなかでは、女性も男性用のイメージをせいぜい借用するしかないのだと思う。例えば、女性が手淫するためのアダルトビデオやヌード写真が世に出るとしたなら、やはり女性のヌードイメージをメインに据えるしかない。女性読者のためのポルノ小説が出版されるとしたなら、性行為のシーンは女性の描写が大半になるだろう。数年前に、おそろしいほど性的な少女漫画が横行したが、やはり男性のではなく女性のヌードイメージと心理描写にあふれていた。しかもあやういと思ったのは、登場人物の女性たちが強姦されてもそれを喜んでいるような描写が見られたことだった。これが男性用ならば、そもそも誤りではあるものの、一応筋は通っている。強姦された女性の心理なぞ彼らが知りえるはずもなく、肉体的な快楽の徴によって彼女らの心理を推し量るだけなのだから、生物的な意味での生体反応を勘違いして彼女たちが喜んでいるという幻想を抱くことは、不可能ではない。それは男性しか持ちえない幻想であり、だから女性がそれを借用するのは根本的におかしい。「強姦がかくも外傷的な衝撃力をもっているのは、たんにそれが残忍な外的暴力だからではなく、それが同時に犠牲者自身の中にある、犠牲者によって否認されたものに触れるからである。(ジジェク)」強姦によって肉体が悦びを得ることは今も昔も禁忌のはずだが、その禁忌を誤った形で、精神的な悦びと誤認させて解放してしまうのは、あまりにあやういだろう。とは言いつつも、エリアーデがマイトレイについてそう分析したように、男に与えられた肉体的な悦びを精神的な幸福感と誤認してしまうことは、思春期の女性にはありがちなんだけど。
ちなみに上に引用したボードリヤールの記述であれっと思ったのだが、捏造された、欲望の装置としての女性と、欲望を消費する側になりうる今日の「女性」とを、彼は混同していると思う。前者は男性がカップリング対象として認知した性としての女性で、後者はそれに対して一体化することの可能な人物全体(非男性全体)を指している。なぜかボードリヤールは、一体化をもはや望んでいない人のみに重責を担わせているが。どのみち後者の呼称として正解なのは「性」という言葉をさしはさまないことであり、社会的に性を矯正されてしまう前の身体のことを指さなければおかしい。という発想が、「ジェンダー・トラブル」以降の90年代においては無視できなかったと思うのだ。


ボードリヤールは「われわれ」という人称を頻発する。西欧文明を生きるひとびとのみを指しているのだが、どうしてこうも著者-読者の一体感を強調するのか困惑する。彼の文章は基本的に装飾的だ。短文をたたみかけ、文末は断言口調で、アナロジーと逆説が多い。読みながら、宗教の教条のイメージが頭にちらついて仕方がなかった。どうにも、本質的な思想を一にした共同体が存在していることを、念頭においているように見える。でも西欧文明に関して、そんなものあるだろうか?
実際、西欧文明を生きていると言っても、わたしはたんに、ある法によって禁止命令を出され、その法のとどく範囲内にいるという以上ではない。かつてボードリヤールは「テロリズムの精神/The Spirit of Terrorism」で、「われわれ」は西欧文明では禁忌とされていること(ヘゲモニーの破滅、具体的には911)をつい願望してしまっていた、と述べたが、それはまったく表層的なレベルでの話にすぎない。そんなことは願望すらしていなかったのに、体制の崩壊をおそれた為政者による禁止命令があったから、そんな願望を抱いていたかのような錯覚をしてしまっただけだ、とドゥルーズを知った今なら思う。彼が執拗に繰り返す「われわれ」という共同体は実は、たんに為政者が定めた、彼の命令の執行範囲に過ぎない。


最後に、ボードリヤールの別の本についてここにぼやきを。建築家ジャン・ヌーヴェルとの共著「les objets singuliers」、日本語の本なのにタイトルがガチでフランス語表記のままなので音読できないこの本。初刷で読んでいるんですが、建築論での訳出ミスと注釈の不備の疑いのある箇所にかたっぱしから付箋を貼っていったところ、10〜20くらい、結構な量になった記憶があります。鹿島出版会は、SD選書で蓄積した知を、どうして生かさないんでしょう。