J.M.クッツェー「敵あるいはフォー」

J.M.Coetzee「FOE


スーザン・バートンという名の英国人女性が、未開の島地に流れ着く。彼女は、連れ去られた娘を追ってブラジルを捜索したものの手掛かりがつかめず、2年振りの帰国を果たすためにリスボンに向けて航海中だった。ところがその船が乗組員に乗っ取られたのだ。島ではロビンソン・クルーソーという名の初老の白人の男と、彼がフライデイと名をつけた黒人の手下が自活していた。


という具合にわかりやすい目印をほどこされているので、ダニエル・デフォー(本名はフォー)/Daniel Defoe「ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険/The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe」をモティーフにした小説であることは一目瞭然だ。また(訳者あとがきに指摘がある通り)、同作者「ロクサーナ/Roxana」をも踏まえて書かれている。
ロビンソン・クルーソー」は抄訳を児童文学として読んで終わりだったから、完全版に目を通してみた。18歳での処女航海から無人島漂着の航海までの間にも8年分の生き生きとした冒険譚がある。また、無人島で過ごした28年間のうち、人の足跡を見つけたのが15年目、フライデイに出会い手下にしたのが24年目、という具合で、一人でいた時間が想像以上に長く、生き残るためにおこなった自活手段の記録が手記のかなりの部分を占めている。そして人肉食を描いた部分は意外と少ない。難破船からの貨物運び出し、インクのある限りでの日誌記録、道具の開発、漂着仲間の獲得、フライデイの言語習得、さらには乗組員に船を乗っ取られた船長と共に船の奪取をはかり、無事本国への帰還を遂げている。しかも帰還の後は事業に成功していて大金持ち。自らの農場のあるブラジルに航海し帰りは陸路を辿っていて、この冒険譚も結構長い。再び無人島に赴き自らの植民地だと公言し、物資調達や移民を請け負ったりもしている。なかなかのやんちゃ振りが面白い。
一方で「ロクサーナ」は、邦訳の出版点数から推察するにあまり有名な著作じゃないし、現にわたしは知らなかった。(ヴァージニア・ウルフは高く評価していたそうだ。)ロクサーナという名の女性が自分の美貌を武器にして、男性の懐具合と社会階級を伺いながら彼らにすり寄り、豪奢な生活を満喫する。自分は美しく機転がきくと自負して、宝石商だの王族だの男爵だのを手練手管で籠絡しては乗りかえ、その都度きっちり大金をむしりとる。ロクサーナが貞淑な夫人を演じるかわりに汚れ仕事は女中のエイミーが一手に引き受けるのだが、ロクサーナがかつて見捨てた娘スーザンが彼女に認知を迫ってきたとき、エイミーはロクサーナの意趣を汲み取りスーザンを殺してしまう。正直クソ女ですロクサーナ、悪は悪を貫くのならまだ救いようがあろうというのに、私は弱く愚かな淫婦だとか言ってときどき殊勝になってみせるのが噴飯もの。


クルーソーはスーザンに島での過去を語るが、語るたびに話が変化して真実なのかが分からない。「島に上陸して15年たつ。」フライデイは必要なわずかな単語しか知らない、でもクルーソーは、15年間誰とも話さなかった割には言語を忘れていない。「フライデイは奴隷の子供で、奴隷商人に舌を切られた」「フライデイは人食い人種で、仲間に食われそうになっているところを助けた」スーザンはうんざりする、脱出を拒否し、道具を開発するのを拒否し、日誌記録を拒否し、自らの存在した痕跡を後世に残そうとも思わない、クルーソーの無為に対して。しかし彼の頑固さを前に、彼女は彼の穏やかな生活をかき乱すことを諦める、エキサイティングなことは何も起こらない。島での生活が1年を過ぎた頃、クルーソーが瀕死に陥る。ちょうどその翌日に一艘の船が沖合に出現し、スーザンはフライデイとクルーソーを連れて乗り込むが、クルーソーは船上で死んでしまう。
フライデイには言語がないから、島でのことはスーザンの証言が全てだ。島で1年過ごしても近代人らしい合理性を失わないスーザン。クルーソーが倒れた途端に助け船が現れる都合のよさ。どこまでが虚言なのかは分からないが、とにかく無人島での生活を記した手記はごく淡々とあっさり終わり、そこから先には、スーザンとフライデイの大都会での生活が待ち受けている。文明生活へと連行された黒人フライデイは当然環境になじめない。スーザンは漂流記での名声を狙ってせっかく手にした職も止め、代筆してくれるという作家ダニエル・フォーからは金銭的な援助を得て、2人は細々と暮らしていた。ところが彼はなかなか彼女の思い通りの伝記を書いてくれず、しかも遅々として進まない。退屈だった漂流生活を彩るために、フライデイの舌を切ったのはクルーソーだったとか、フライデイが花弁を撒いていた淵には難破船が眠っているなどと彼女が脚色するのを、軽く聞き流すフォー。彼からの援助は絶え、2人の生活は窮乏する。そんなとき彼女の前に、同名スーザン・バートンを名乗る少女が現れ、娘だと言う。しかも後に、エイミーという女中を伴って。彼女は少女を徹底的に拒否しついには置き去りにするのだが、そんな彼女の行動は、娘を探しにブラジルまで行く女性と同一の沙汰とは思えない。


物語の時間が進行するにつれ、スーザンの語り手としての立場がゆらいでいく。最初は手記という形でじかに私に届いていたのに、それがフォーに宛てた手紙であるという体裁をとることで直接性から一歩後退し、さらに一人称語りの一般的な小説の文体をとることによって彼と彼女はともに小説世界におしとどめられ、私と同じ世界に存在するという仮想すらありえなくなる。伝記という体裁がだんだんと解体してゆく。彼女の存在が、数多くある漂流記に描かれた難破船の乗船客と等しくなるまで。語り手として確かだったはずの足場は崩れ去り、真偽の定かではない物語の一役者に成り下がる。
クッツェーは後に続く作品の中で、自分自身も、自らの作品世界の中へ足を踏み入れている。それは、きれいに分節し積み重なった多層な世界を攪乱しているのか、もしくはそもそも層なんて見せかけに過ぎないんだろうか?