サミュエル・ベケット「伴侶」

Samuel Beckett「Company」


……同じ闇、あるいは別の闇のなかで、もう一人の人間が、すべてを自分の伴侶として想像する。ちょっと見たところ明白な言葉だ。だが、まじまじ見られるとそれは混乱する。しかも目がまじまじと見れば見るほど、それはよけいに混乱する。目が閉じるまで。こうしてようやく楽になった頭は自問する、これはどういうことだ。一見明らかに見えたのに、これは一体どういうことだ。……彼は自分について語りながら、またこうも言う。彼が自分自身について最後に語ったとき、それは自分の作り出したものと同じ闇のなかに、自分がいると言うためであったと。最初予想されたように、別の闇においてではない。同じ闇で。同伴するのにより好都合な闇として。……おまえは空しく作り話をいじりまわす。言葉が終わりに達するのを、ついに悟ってしまうまで。空虚な言葉を重ねるたび、おまえは最後の言葉に近づいていく。いっしょに作り話も。おまえといっしょに闇のなかにいる他人についての作り話。闇のなかにおまえといっしょにいる他人について作り話をするおまえについての作り話。そういうわけで、要するに、徒労の方がましで、おまえはあいかわらず。
ただ一人。


わたしの周りにはたくさんの他人がいるけれど、彼らが本当に他人なのかをベケットは易々と疑わせてしまう。周りの人々から発せられる言葉や仕草、どれについても結局は、みずからの持てる語彙のなかでしか、それらの意味することを読み解けない。(欲深い人には善意というものがわからない、など。)ということは、例えば本を読むことによって語彙が変化したならば、目に映る人々の有様もそれに応じて変化してしまうはずだ。実際、微々たる読書量であるにもかかわらず、ラカンフーコーの影響下にある思想家たちの著作は、わたしが人々の行動原理を推察するときの作法を、大きく揺さぶってしまった。その変化は、内省的な評価をするならば、自分自身の思考形式の変化としてとらえられる。けれど日常においては、自分自身を座標の原点に据えて生活しているから、人々が変化したのだ、というふうに相対的には見える。すると人々はさほど他人じゃない。自分の語彙の範囲内でだけ意味を持ちうる、しかも往々にして自己都合で塗り固められる、便利な伴侶だ。おまえはあいからず、ただ一人。目の前耳に聞こえる他人はすべて自分の分身で、何億人もの分身と対面しつづけている、またはただ闇のなかに、作り話の幻想を見ているだけだ。


物理的に近い距離にいる人、頻繁に見かける人、連絡の絶えない人、遠く離れている人、滅多に会わない人、連絡しない人…もしもあいかわらずただ一人なら、わたしと彼らとの関係は、距離や周期の小ささが、質的な差異を生むとは必ずしも言えなくなる。彼らに適用する語彙がどれだけ豊富になったのか、あるいは彼らに対してどれだけの量の語彙を費やし発展させたか、考え作り出した思考の総量に、対話の質が依存するように見える。デリダが、既に故人であったガダマーやツェランと対話しつづけたように。彼は彼の闇に深く身を横たえ、彼の伴侶に語りかけた。
いや、やはりこの思考はいただけない。故人との関わりが、生きて応答をしてくれる人との関わりと等位になるとは思わない。わたしは惜しんでいるのだろうか。抽象的な話題を成立させられる人々はわたしの周りから消えつつある。大学在学時に難解な書物を読みこなしていたはずの友人たちの多くが、もはや大衆文学にしか目を向けないことが寂しい。応答をしてくれる人の不在をどうにか一人で乗り切る術を、今のうちに身につけようと躍起になっているのかもしれない。