W.G.ゼーバルト「土星の環」

Winfried Georg Sebald「The Rings of Saturn」


……私たちは荒寥とした音もないこの八月について話した。何週間も鳥の影ひとつ見えない、for weeks there is not a bird to be seen, とマイケルが言った。なんだか世界ががらんどうになってしまったみたいだ。It is as if everything was somehow hollowed out. すべてが凋落の一歩手前にあって、雑草だけがあいかわらず伸びさかっている、巻きつき植物は灌木を絞め殺し、蕁麻の黄色い根はいよいよ地中にはびこり、牛蒡は伸びて人間の頭ひとつ越え、褐色腐れとダニが蔓延し、そればかりか、言葉や文章をやっとの思いで連ねた紙まで、うどん粉病にかかったような手触りがする。……もしかしたらわれわれみんな、自分の作品を築いたら築いた分だけ、現実を俯瞰できなくなってしてしまうのではないか。だからきっと、精神が拵えたものが込み入れば込み入るほどに、それが認識の深まりだと勘違いしてしまうのだろう。その一方でわれわれは、測りがたさという、実は生のゆくえを本当にさだめているものをけっして摑めないことを、ぼんやりと承知しているのだ。……
……情けないがわたしはとことん実務に向かない人間、じくじくと物思いにふける性分です。家じゅうそろって甲斐性のない夢想家なのですわ、わたしに劣らず、子どもたちも。ときどき思うのですよ、この世にとうとう慣れることができなかったと、そして人生は大きな、切りのない、わけのわからない失敗でしかない、と。It seems to me sometimes that we never got used to being on this earth and life is just one great, ongoing, incomprehensible blunder. アシュベリー夫人が話を終え、そうしてみると私にはその話の意味が、ここに残って、日々邪気のなくなっていく彼らの人生をいっしょに分かってほしい、と無言のうちに頼まれていることであるかのような気になってくるのだった。私がそうしなかったこと、その──その無能は、いまもなお、翳のように胸をかすめることがある。……


タイトルは、ベンヤミン土星の輪あるいは鉄骨建築」に依っているらしい。イギリス最東端イースト・アングリア地方をめぐる旅。旅の行程のほとんどは徒歩によっておこなわれる。昔なじみの友人宅、使い慣れた宿、などの目的地はあるけれど、そこまで至る道を彼は省略しようとしない。たったひとりで、自分が知る限りの場所の記憶や人々の個人史に思いをはせながら、くたびれるまで歩き続ける。人気のない海岸線、海沿いの灯台は崩れ去る。ヒースの荒れ野には鳥の影ひとつ見当たらない。広大な土地にぽつんと建つ領主屋敷は放置され朽ち果てて、庭園は人工を自然が凌駕してしまう。かつての栄光をしのばせる町並みは埃を被り、わずかに開いている商店すらも活気はない。イギリスでは、不動産からの不労所得で生活できる富裕層は、時代の流れと共に減少した。今でも明瞭な社会階級が存在していると聞くけれど、そこからこぼれ落ちた旧家の人々の挫折感はこうも静かなのだろうか、アシュベリー夫人のように。それぞれの土地を領主が治めていた時代が終わり、彼らの邸宅はそのまま取り残され、小作人たちがかつて耕していた畑は荒れてしまった。そして時代の主導権を握った産業革命の申し子たちもまた、当時は最先端だったはずの整備の社会的劣化をどうすることもできず、町並みも機械一式ももはや過去の遺物と成り果てたままだ。彼らブルジョアたちを歓待すべく建造された観光都市も、その没落に同調せざるを得ない。緩やかな衰微を受け入れるということは、決して過去の清算を伴わない。過去から連続している時間のなかにとどまり続けて、押し寄せる現実にひたすら慣れようと努力するだけだ。時間が過去と現在と、同じくらいの重要度を持っている。もしくは、自分だけが過去から連続した時間のなかにいて、地上の時間は刷新されてしまったのかもしれない。せっかく時代に適した形で生を享受したのに、いつの間にか周りのほうが変化して、自らの持てる資質が世界の求める条件に合致しなくなってしまった。イギリスは祖国全体としても、自らの衰微を了解しているように見えてならない。産業革命の華々しい町マンチェスターが労働者の多くを移民に依っていた(とゼーバルトが述べている)のと同様に、ロンドンのシティは世界有数の金融街になるために、富裕な資本家を海外から呼び込もうと、国外資産の条件付き非課税などの積極策を講じていた。外部の流入という形でしか、新しい産業構造や社会に対応できない、彼ら自身は朽ちゆく時間のなかに身をおく以外の方法を知らないかのように見える。


語り手はゼーバルト自身を彷彿とさせる人物。彼は実際にノリッジに住み、イースト・アングリア大学でドイツ文学を教えていた。1944年にドイツで生まれていて、戦争の直接的な記憶はない世代だ。彼自身にはユダヤ系の血筋はない。ドイツ文学を専攻し、ベルンハルトやカフカヘルダーリンベンヤミンに敬意を抱く。記述に用いている言語もドイツ語だ。彼はノリッジに居を構え移民として住まうけれど、彼には移民たる実際的な理由がない。つまり、血筋のせいで亡命せざるを得ないとか、仕事が海外でしかできない事柄だったとかいうのはない。ただ、慣れ親しんだドイツからなんとか身を引きはがさないと、ドイツ文学について正確に観察することができなかったようにも見える。彼は57歳で事故死してしまうけれど、客死というほかない。
同じ環境、同じ人間関係にとどまり続けてそれに慣れ親しんだ結果、膠着状態におちいってしまうことがある。身動きのとれない状態。この環境に残るなら自分が変わらなくては状況は好転しないのだから、多くの場合は自分が移動することによって環境そのものを変えてしまうという方法を選ぶだろう。ゼーバルトが海外に居を構えたのは自分を捉える文化からの逃避に見えるけれど、かといって移住先に慣れ親しんでしまったならそれこそ二の舞になり再度の逃避を余儀なくされるから、彼は余所者でありつづけるしかなかった。結局、いつでも所在なく浮いているか、膠着状態に肝をすえるか、どちらかしかないのだ。以前読んだあるジュブナイルは後者の形で結末を迎えたのだが、前者よりも後者のほうが間違いなく強い決意や覚悟が必要だということを、よく知らしめていた。主人公の男子高校生は、幼馴染の同級生/自分の妹/高校の異端児という3人の女性からの好意を最初うまく乗りこなしているが、あまりにうまくやりおおせていたためにそれぞれとの関係が進展し、三つ巴の輪がだんだん狭まり逃れられなくなる。そしてこう吐露する、「……常に、全力を尽くしてきたはずなのに。いつだって真面目に、誠心誠意、あらゆる問題に取り組んできたはずなのに。どうして──こういう、こんな形の場所に、落ちて、陥ってしまったのだろうか。」果てしない徒労感と、綻びが滅びへと連鎖していく道をたどるしかないように見える未来への絶望。だがこの告白の直後に彼は、結局のところ自分は大好きな3人と楽しめるじゃないか、と膠着状態を真正面から受け止めて泳ぎきる決意を固めたのだった。


語り手は孤独だ。イースト・アングリアの人気の無い土地をほとんど徒歩でひとりきりで旅する。知っている土地に行っても、そこに懐かしさや親しみをおぼえることがない。そして彼の孤独が相当に根深いものであることは、旅が唐突に終了する場面で、逆説的な仕方によって明らかになる。旅の描写と追憶が続いてきたなかで、何の前触れもなく「…そこから家に電話して、車で迎えに来てもらえばいい。…」と書き込まれることによって、まさにその地点において徒歩の旅は尻切れるのだ。語り手には帰る家が存在していたのだということに、何故だかおどろかされる。彼の追憶のなかには、マイケル・ハムバーガーらごくわずかな友人をのぞいては、家族などの身近であるような存在が少しも現れることがなかった。「……マーメイド・バーでクララを待つうちに、……」という言葉によって語り手は、彼の孤独な旅に同伴してきた聞き手を突き放すのと同時に、長々とした追憶の中に一片たりとも登場しえなかったような人物「クララ」と同居しているのだと打ち明けてしまう。彼の長旅に付き合ったのだから彼の孤独さを自分だけは理解できている、という聞き手の甘い幻想を打ち砕き、実質彼と近距離にいる同居人ですら彼の孤独の外側にいるということが示される。
ただこの突き放された感触、語り手のよき理解者であるという思い込みは、はっきりと、聞き手の側の語り手への好意の現れだ。不思議なものだ、自分だけがその人の孤独を理解しえている、自分だけがその人を救済できる、という幻想は、彼を取り囲む幾人もの理解者候補から自分自身を差別化し、彼らを出し抜きたいという気持ちのことだ。


ベケットの「伴侶」のメモで、最後に翻意してしまったことを取り消したい。対話相手が応答をしてくれるということが、対話の質にとって最重要とはやはり言えない。数日前にドキュメンタリー番組を観て、14年間も意識不明のままで家族を支えつづけた人を、見舞ったときの気持ちを思い出した。



※引用箇所にあたるpage171-line16は誤記?
※あるジュブナイル=西尾維新きみとぼくの壊れた世界