サミュエル・ベケット「見ちがい言いちがい」

Samuel Beckett「Ill Seen Ill Said」


もう幻でしかありえない。もう続かない。彼女とその他すべて。すっかり眼を閉じて、彼女を見るだけ。彼女とその他すべて。眼をすっかり閉じ、彼女を死ぬほど見ること。省略なしに。小屋で。砂利土の上で。野原で。霧のなかで。墓の前で。そして帰る。そして他のもの。金輪際。ぜんぶ。死ぬほど。かたづけること。次に移ること。次の幻に。この汚れた肉眼を、すっかり閉じてしまうこと。何がそれを妨げる?注意。


生死のさだかでない老女のいる、時間と空間について記述したもの。現実のさまざまな表象すべてを極端に削ぎ落として象徴的な風景にまで還元し、それはあたかも、前衛的な演劇の舞台の上で生死の有り様が繰りひろげられているかのようだ。ベケットは、記述のなかでは彼女の生死のいかんに拘泥しない。と言うよりあまりに拘泥しすぎて、その閾の一瞬を好きなだけ引き延ばしてしまう。死ぬのは常に他人ばかりであるはずなのに、自分の死は自分では認識できないはずなのに、彼女はあまりにも長きにわたり生死の閾に立たされて、死にゆく自分を見つめる他人、死にゆく他人を見つめる自分、視座がいっこうに定まらず、他人と自分とがさほど区別されなくなる。或いはつねに見そこねていたこと?本当はいかなる視座からでさえ、自分自身を見ることなどできなかった。自分自身の存在を目の当たりにしたことはない。他人がこちらに向ける眼差しのなかに、その眼差しの先にいる者の死を感じ取っただけのこと。しかもそのとき、眼差しのたもとに他人がいるかどうかは構わない、暗闇のなかで、眼差しの存在を見つけだす。


80ページ弱の掌編。ベケットの初期3部作が白水社から出版されているのに比べ、こちら後期作品は書肆山田から、という辺りで作品の性質が推し量れよう。寡黙な作品であるぶん読者の裁量があまりに大きくて、翻訳者の宇野邦一が読み取ったであろう世界に対して、自分のは狭い、と少し情けない気持ちになる。