雑賀恵子「エコ・ロゴス」



……ともかく、人間存在の昏く根源的なところを揺さぶるおぞましさを、近代理性は、徹底的に退け、あるいは明るみのなかに引きずり出して馴化しようとしてきた。したがって、殺人は、刑法の体系のなかに属するが、食人の罪状は刑法には存在しない。自然─動物と、言語を持つ人間の間には、深い淵があり、人間は特権化されるべきものであるからである。つまり、食物と生物を、われわれは言語の上で、分類しているので、罪刑法定主義かつ文言主義の実定法体系のなかでは、人間を食べることの是非は排除される。


ここ数年で、法(倫理)に対するわたしの考え方はかなり変化した。アガンベンのシュミット論やドゥルーズフロイト論を読んで、法からの抑圧や支配の機構を認めてしまったなら、もはやそれが清廉で正義であるように見えるはずがない。
殺人を法によって禁止するということは同時に、人間には殺人を犯す衝動が存在しているのだ、と被抑圧者たちに認識させる効果をもたらす。つまり法は、殺人を人間の所業として数え上げることを認めているのだ。まあ確かに、有責性の問題ひとつとってみても、あまりにも凶悪で冷酷で「非人間的な」犯罪の場合は、精神鑑定が必ず行われている。精神異常をきたしている範疇以外を人間の所業と認め、その部分についてだけ刑法を適用するために。人間という括り入れに対して、まあ随分と慎重に線引きをなさるものだ。
一方で食人に関しては、これは犯罪として法で定義されていない。一般的には禁じられているはずの食人を禁止していないということはつまり、食人を人間の所業の範疇にはいれない、そもそもおまえたちは食人などしないはずだ、というのが法の意志なのだ。そもそも、食人は殺人に比較して圧倒的に容易で害が少ない。よく滅菌した上で屍肉を食べればいいだけの話だからだ。こんなにも手を染めやすい禁止を法が明文化せずにいるのは、法は集団生活を維持するために自然発生的に成立したものだ、などというのが欺瞞にすぎないということをよく示してくれる。要は、食人に言語の光を当てる訳にはいかないのだ。同類他者を体内に摂取するならば例えば臓器移植という手段もあるし、輸血という手段もある。口からの摂取だけがロゴスから拒まれる。味覚という悦楽へ直結することがタブーなんだろうか。どうして味わってはいけないんだろうか。
非抑圧者に対する説明としては法の存在意義は、たとえば「集団生活の維持」とか、あくまで被抑圧者の利益として語られるけど、実際は全く別の目的に向かっているようにも見えることもある。たとえば、「法の埒内では、個人による殺人が禁止されるけれど、法の実質上の発語者、というより根拠である国家による殺人は禁止されない。すなわち、戦争と死刑である。……殺人という例外規定を国家に掌握させることにより、国家の超越性を保証するためである」と開き直ることも可能なのだ。法は、殺人が犯罪で食人が犯罪でない理由を明快に説明できない。「犯罪というのは法が禁止していることを犯すことだと同語反復的に定義する」しか術がない。なんて自分勝手でいい加減な奴なんだろう。


本書は、出版社PR誌「未来」の再録。大岡昇平「野火」における食人をとりあげているほか、他人の死を食べて生きていることについて、畸形者と断食芸人についてなど、食とその環境に関するエッセイ集。