W.G.ゼーバルト「空襲と文学」
Winfried Georg Sebald「On the Natural History of Destruction : With Essays on Alfred Andersch, Jean Amery, and Peter Weiss」
・空襲と文学 チューリヒ大学講義より
・悪魔と紺碧の深海のあいだ 作家アルフレード・アンデルシュ
・夜鳥の眼で ジャン・アメリーについて
・苛まれた心 ペーター・ヴァイスの作品における想起と残酷
以上の4篇を収録。
第2章のアンデルシュ批判がはらはらするほど辛辣。ゼーバルト曰く彼は、ユダヤ人の悲劇をうまく搾取し、名声と社会的地位を得るために利用した。時代に合わせてこそこそと変節を企て、市井の批評家たちの視線にも気を配った。「疑いなく反体制的な姿勢を持ち、鋭い知性を持ち合わせた人間も、ファシスト政権が限りなく権力を増大させていきそうに思われた時代にあって、多少とも意識的に迎合へと転身することがありえたこと、そして戦後、アンデルシュのような公人は、ひそかに抹消や変更を加えてみずからの履歴を整えざるを得なかったこと」を舌鋒するどく糾弾している。
誠実なドイツ人であったとしても、国内にとどまり続け、ユダヤ人への迫害を看過せざるをえなかった苦しみや、その苦しみをどこにも訴えることができず、自分で消化するか隠滅をはかるしかない、そのための心理的なアリバイを作り上げる徒労は、なんだか想像に難くない。第二次世界大戦末期に、イギリス空軍がドイツ領土に実施した無差別絨毯爆撃について、「四五年以降の歳月、私の知るかぎりではドイツにおいて一度も公的な議論の場に乗せられたことはない。……何百万人を収容所で殺害しあるいは過酷な使役の果てに死に至らしめたような国の民が、戦勝国にむかって、ドイツの都市破壊を命じた軍事的・政治的な理屈を説明せよとは言えなかったためであろう。また、……空襲の罹災者のうち少なからぬ者が、空襲の猛火をしかるべき罰、逆らえぬ天罰であるとすら感じていたという可能性もある。……」イギリス国内では、この無差別爆撃、破壊のための破壊に成り果てていた攻撃に対して、批判的な世論が沸き立っていたにも関わらず。空襲に居合わせて、破滅の光景を目のあたりにした衝撃にどうにか処理をつけようとしたのに、誠実な著作家たちの多くは、破滅を正攻法で描くことをしなかった。実際に焼失しつつある町に自分がたたずんだ経験、破壊され尽くした町並みと大量の死体を前に、誠実な彼らでさえ、その凄惨な風景を文学的なクリシェに回収してしまう。すべては、その衝撃を直接には思い起こさないようにするために。火事の遠景を美しい地獄の業火に見立てたり、錯乱して逃げ惑う人々に理性的であるような描写を与えたりする。「こうした表現の効能は、理解を絶する体験に蓋をして、毒消しをすることにある。」
一方ゼーバルトは、収容所経験を持つユダヤ人アメリーを、苦痛を清算し乗り越える作業を正しい仕方で実践しつつあった作家としてとりあげている。アメリーは、自らの経験に俯瞰した視点を与えることはなく、淡々と受けた虐待を記し、心身の状態を洞察している。「あたかもアメリーにとっては、記憶のいかなる断片も痛いところを突くもののようであって、あらゆる記憶は即刻つまみあげて省察へと移しかえずにはいられないかのようだ。省察になってようやく、いくらか計量が可能となる。想起すること──恐怖の瞬間のみならず、まがりなりにも平穏だったそれ以前の時代をも想起すること──が耐えがたいという問題は、迫害の犠牲者の精神状態に重くのしかかっている。」「いったん犠牲者になった者は、いつまでも犠牲者にとどまりつづける。……いかなる裁判もいかなる補償も救えないこの状況と情緒面で対応するのは、アメリーにはおなじみだろう、押し黙ることであった。ファシスト体制終焉後に出てきた、せいぜい間接的な感動をしたにすぎない後裔たちが犠牲者の問題を横領しつつあった状況を目のあたりにして、アメリーはテロルが強いた沈黙を破ろうとし、……」収容所についての真実は、決して語られることがないとは、「アウシュヴィッツの残りのもの」でアガンベンも述べた通りだ。同じく収容所を経験した作家、プリモ・レーヴィを引き合いに出して。生還者レーヴィはしまいには自死を選んだが、生前、自分が収容所を生き残ってしまったことへの罪悪感、小説を書くようになったことへの嫌悪感について言及していたんじゃなかっただろうか?あの体験について「ほんとうのこと」を言語化できない、という苦しさは、収容所を生還したとて意味がないのだ、と感じさせてしまうのだろうか?アメリーの最期も自死だ。
ゼーバルト「移民たち」のアウラッハの個人史のなかで、母語を失うというイメージに戦慄してしまっていた。それに関連して、アメリーについて以下を引用しておく。
……ベルギーに亡命するために国境を超え、故郷なき存在としてのユダヤ人の重荷を身に帯びなければならなくなったとき、しだいによそよそしさを増していく故郷としだいに親しみを増していく異郷との間の緊張を耐えることがいかに困難であるかを、アメリーはまだ自覚していなかった。アメリーがザルツブルグで自殺したことは、とりわけこの点からして、故郷と亡命との、「郷里と異国のあいだ」の、解決できない葛藤の解決だったと言えるだろう。
言語と取りくむ者にとって、亡命の不幸は言語によってしか乗り越えられない。……「……自分の言葉を作り上げることだけに心血を注がねばならなかった………自由な日常語をふたたび使えるようになるまでには長くかかった。いまなお居心地の悪さがともなうし、その価値を信頼しきることができない……」母国語が「ボロボロと崩れていく」または「萎縮していく」……みずからについて語ろうとするなら、言語、すなわち言葉にされていない思考の働く場である媒体を立て直すよりほかはないものと悟る。……だが、その言語すら、とどのつまりひとりの男の難況を受けとめる器としては不十分だった。朝起きて前腕に入れ墨されたアウシュヴィッツの囚人番号を眼にするたびに、日ごと世界への信頼を失っていく男にとってはである。……