W.G.ゼーバルト「目眩まし」

Winfried Georg Sebald「Vertigo (Schwindel. Gefühle.)」


・ベール あるいは愛の面妖なことども
・異国へ(アレステロ)
・ドクター・Kのリーヴァ湯治旅
・帰郷(イル・リトルノ・イン・パトリア


以上の4篇を収録してある。アンリ・ベールとは作家スタンダールのことで、ドクター・Kとは作家カフカのこと。ゼーバルト自身と目される語り手が、スタンダールの記録やカフカの日記、自分の過去の記憶をたどりながら、彼らや自分が訪れ住まった場所を旅する。半ば感傷的に、風景描写は写実的に、気が赴くままという体裁で、旅先のカフェやホテルで綴られ、まとめられた手記。
語り手は、故郷に戻っても、旅先の地でも、どこか所在ない。余所者として、腫れ物にさわるような、あるいはぞんざいな扱いを受ける。彼のまわりには、好意的ではない人か、滑稽な人、どちらかしかいないように見える。また風景は朽ち荒廃しはじめ、曇った空と不快な大気、すべて、彼を歓迎せずむしろ彼が自ら出て行くのを待ちわびているかのように暗鬱としている。「……大聖堂の中に入ってしばらく腰を下ろし、靴ひもをゆるめたところで、いまも生々しく甦るのだが、ふいに自分の居場所がわからなくなった。懸命になってここに来るに至った数日のなりゆきをたどろうとしたが、自分がまだ生者の域にとどまっているのか、すでにどこかこの世ならぬ場所にいるのかすらおぼつかぬ始末だった。……」自分の身のまわりの一切を自分自身と関連づけることができず、見知らぬものの渦の中でめまいを引き起こす、自分が生きていようが死んでいようか拘泥しない、見知らぬ世界の中で。いっぽう、ドクター・Kは旅先からフェリーツェに宛てた手紙にこう書いている、「自分はひとりだ、従業員のほかには誰とも口をきいていない、惨めさが体から溢れだしそうになる、だがこれだけはたしかに言える、自分はいま自分にふさわしい、天上の定義によって定められた、おのれにはいかんともしがたく死ぬまで背負いつづけるしかない状態にあるのだ。」解説執筆者の池内紀によると、「ドクター・Kのリーヴァ湯治旅」はほぼカフカの日記どおりの道程を踏襲しているらしい。勿論そこまで気付くことはできなくても、カフカ世界の断片はあちこちに明示されている。Kという名前、フェリーツェ、アマーリア、狩人など。


過去の記憶をたどるうち、語り手の思いは自由に時間空間を行き来する。過去に見たものを再び見ること、それを覚えている人と語り合うこと、現地で痕跡を確認すること。「過去の光景を集めれば集めるほど、と私は話した、過去がそのように起こったのだとは信じられなくなってくる、なぜなら過去はどれひとつとしてまともだと言えるものがない、たいがいが荒唐無稽で、荒唐無稽でないなら、身も凍りつくことばかりだからだ。」記憶にとどめている過去が、どの程度まで真実なのかはわからない。「旅先で眼にとまった美しい風景画などをけっして買うものではない、とベールは忠告する。なぜならその版画がじきにわれわれの持っていたいくばくかの記憶を乗っ取ってしまう。」だが、荒唐無稽だと思えることの中にも真実はある。その理不尽さも実際には、感情を未だ伴っている時点から眺めたなら、合点がいくものなのに違いない。語り手の生家近くの邸宅に住んでいた老婦人たち、「ありし日のバベットとビーナが、あるいは彼女たちが未来に思い描いていた自己像が、幾年となくつづく失望とくり返し奮い立てられる希望とによって、芯まで破壊されてしまった、ということである。打ち砕かれ、永久にふたりべったりの暮らしをつづけるうちに姉妹は見る影もなく損なわれて、結果、誰からも頭のちょっといかれたふたりのばあさんとしか見られなくなってしまったのだ。」


ゼーバルトは文章そのものはきわめて理性的なのに、記憶の道筋に関して、物語として通じやすいような描き方をしない。ゆらゆらと記憶がたゆたうまま、心の中を占める体積はふくらんだりちぢんだりを繰り返す、その一瞬の心象風景を、旅という行為を通して荒い写真に焼き付けたかのようだ。(作家として意図的にやっているということを括弧に入れるとして、)実際、このような記憶の描き方は、語り手にとって最もシビアに自分自身との対話を強要するのではないだろうか?わたしはどうやら直視できそうにない、自分が日常の時間の中で過去のことを思い出し、それを比重のままに書き記すなど。でもここの語り手はきわめて冷静だ。感情記憶はかなり排除されているように見え、彼にとっては過去は過去、生き生きとしたものではない。任意に歪めてしまったもの、変質してしまった記憶として捉えられている。ゼーバルトの人間観察、そして「〜と語った」の繰り返しにあるような伝承者としての、自分の痕跡を排除するかのような気質は、冷静な他人も存在しうるんだということを気付かせてくれて心地よい。兎に角、他人の無責任な吹聴が嫌いだったし、むしろ黙殺してほしかった。そう、私のこういう気の持ちようは多分、ドクター・Kや語り手に似ているんだろうと思う。


「移民たち」のアーデルヴァルトに関する語りについて、こちらのほうに書き留めておこう。精神病院で粛々とショック療法を受ける彼について医師は、まるで自分自身の精神を破壊したいかのようだった、と語った。自分に対する強い戒めの感情には覚えがある。かつて、毎日15時間を超える知的労働をしていたことがあって、おそらくかなり精神的に参っていた。態度もあまりに頑な過ぎるか、どこかおかしかったのだろう、男に平手をくらったのはこの時が唯一だ、感謝しているが。職場を訪れる優しい部外者を傷つけてしまうのにもためらわなかった。その状態から解放されて数年して、ああ、あの時わたしは精神科にかかるべきだったと思った。他人を傷つけるくらいなら薬物で精神を麻痺させたかったし、今のわたしは、当時病名を与えてもらえなかったことによって、あの行為の全責任を一人で背負いこんでいる。四郎のようにできればよかったのに、彼は大怪我をして即刻外科外来にかけこむのとまったく同じようにして、精神医学的に正しい意味でトラウマを受けた直後に精神病院にかけこんだのだ。次はわたしも判断のミスはするまい。と思い続けていたけれど、自分を麻痺させたいという願望は、理性的ではあるけれど自殺行為に等しいのだろう。現にアーデルヴァルトは死んでしまった。自殺という、自らの意志で身体の生を屈服させるという行為には一見強さがあるようにも見えてしまう。自分が意外とストイックに、ジムやランニングで身体を苦しめ続けられる人間だと気付いたときに、この延長に三島がいるのではないかと思えて不安になったことがあった。あれは強さではなく孤独なんだと、アーデルヴァルトが教えてくれた気がする。
※四郎=舞城王太郎「煙か土か喰い物」の奈津川四郎