W.G.ゼーバルト「移民たち」

Winfried Georg Sebald「The Emigrants」


才気煥発と自分の考えをまくしたてる訳でもないし、派手でわかりやすい業績をあげた訳でもない。それでもなぜか友人たちの間で、その発言にとりわけ重きをおかれるような人がいる。ゼーバルトアウステルリッツ」を褒め薦めたのはまさにそういう類いの人だった。彼ら2人は揃って物静かで、数人で集まって会話していても、自らが話題を提供することは少ない。ただ、自分の知っている限りのことを話す人たち──もちろん時には難解にもなる──の言葉に聞き入り、それら一つ一つに対して、的確な返答を積み上げていく。相手の提供した話題について常に既に知っている、彼らの知識の深さはなかなか伺い知ることができない。思慮深い人たち、思考のすべてを表面に出さない人たち……そのような彼らの姿は、どこか、この小説で語られる4人の気質を思わせる。そして、その人々の生涯をたどる語り手の視線には敬意が宿っていて、それは友人たちが彼らに対して注ぐ視線によく似ている。


この小説は四つの物語で構成されている。どの話も大きくは、ユダヤ人の悲劇によって移民を余儀なくされた人々の、移住先での成功と悲傷に満ちた最期を語っている。
第一話は、ヘンリー・セルウィン、医師。リトアニア出身で、アメリカへの移住をめざして船に乗ったもののイギリスに流れつく。ケンブリッジを良い成績で卒業し、医師として成功した過去がある。現在はイギリスにある夫人所有の朽ち果てた邸宅で、人工を凌駕しはじめた自然と共に、野生に還りつつある植物と共に、粛々と余生を送っている。語り手に彼の過去を話して聞かせしばらくして、彼は猟銃自殺を遂げた。
第二話は、パウル・ベライター、小学校教師。父親に半分ユダヤの血が混じる。ドイツのS町で裕福な百貨店主の子供として育った後、小学校教師となり意欲的な授業を行う。語り手はこのときの生徒だった。戦中戦後は教職に就けなくなり、悲劇を自分だけは何とか逃れた後で、フランス、ドイツを点々とする。S町に舞い戻るが教職に挫折し、晩年はスイスに過ごす。S町には何度も出掛けていたが、最期には列車の前に身を横たえて命を落とす。語り手はその訃報によってベライターの生涯を辿り始めていた。「(ウィトゲンシュタインベンヤミンなど、自殺したか自殺の淵まで行った作家たちの文章を抜き書きすることによって、)パウルはここに証拠がためをしていたのだ、そしていわば審理をすすめるうちに、積み重なったその重さによってついに確信したのだ、自分は追放された人間であって、S町の人間ではなかった、と。」
第三話は、アンブロース・アーデルヴァルト、執事。語り手の大叔父にあたる。ドイツ出身で、ホテルで修行したのちにアメリカへ渡り、大富豪一家の執事に就く。主に、放蕩息子の世話をして海外をついてまわる。息子が精神病がきっかけで儚くなってからは、老主人と夫人の世話に手を焼く。気品のある人物で、けっして羽目をはずすことがなかった。最期は自らの意志で精神病院に入り、患者の廃人化もささやかれていたショック療法を、すすんで受診していた。「なにげないひとことやしぐさのひとつひとつ、最期まで崩れることのなかった立ち居ふるまいのことごとくが、あたかもこの世から消え去らせてほしいと訴えているかのようでした。……あなたの大叔父さんは、思考の能力、想起の能力を根こそぎ、二度と戻らぬまでに消したがっていたのですよ。」語り手は精神病院を訪れた。庭の植物が手入れのないまま生い茂り、木食い虫が建物を朽ち果てさせるのにまかせてあった。
第四話はマックス・アウラッハ、画家。産業化時代の移民たちと、時代の廃墟の町マンチェスターに囲まれて、アウラッハと語り手は出会った。ドイツから逃れでてイギリスに伯父を頼った後、伯父がアメリカに脱出するのを機に自分はマンチェスターに残った。父母はとうとうドイツから出られなかった、「……飛行場で父母と別れてから、わたしがひとことも口にしていないことば、いまは幽かな残響、聞き取れないくぐもったつぶやきとしてしか残っていないことばです。わたしが母語を捨てた、喪ったこととあるいは係わりがあるのかもしれせんが、とアウラッハは続けた、わたしの記憶は九歳か八歳のあたりまでしかたどれず……」、ドイツでの思い出はすべて無声映画、過去の、この世ならぬ国。語り手が最期にアウラッハに会ったのは、衛生状態の良くない病院でだった。


4人は語り手に触発されるようにして、自分の過去を語りだす。時には家族や親しい友人のことも詳細に。感傷的ではあるが事実のみを淡々と、ただ極端にディテールが誇張されたり、語りたくないことは伏せられたり、彼らの心況のままに物語の比重は自在に歪む。そして語り手も、何とはない折りに、彼らのことを思いだす、何によって導かれたのか判らぬままに。
「直線距離にしておよそ200キロ、かくも離れて──だがどこから?」ベライターは結局、幸福な時代をすごしたはずのS町が自分を疎外したことを確信してしまった、かといって他国で安寧な毎日を送ることもできなかった。他の者たちも、故郷に格別の思い入れがあった訳ではないのに、移住先で成功したはずなのに、いつしか悲嘆に陥ってしまう。アウラッハは、マンチェスターはわたしをしっかり捉まえてしまった、という程にかの町に執着したのに、どうしてか喪った過去に蝕まれる。彼は語った、光よりも空気よりも水よりも、埃はわが身にはずっと親しい、と。アーデルヴァルトは自分の意志が摩滅してしまうことを願い、セルウィンは人との関わりを断ち自然の中で果てゆくのを願った。彼らの最期はどれも悲傷に満ちている。移住して数十年を順当に過ごしていながら、いつか精神を消耗させてしまう。彼らは静謐さを身にまとい、自分自身について多くを語らずにいた。孤独は彼らの内だけに閉じこめられ、その封印された世界では、想像以上に、既に断ち切られたはずの過去が幅を利かせるようになるのかもしれない。日常生活に結びつかないが故に、かえって希求されるような性質によって。それは年を追うて薄れもせず、次第に、現実の成功によって得られた快活さをすら蝕む。
自殺はあまりにも易々と苦しみを想像させてしまうために、それにばかり4つの人生の悲傷の存在根拠を依存させてしまいがちだが、実際はその劇的な終止符が生に意味を持たせた訳ではない。実際、他の数多くの緩慢な死にまぎれて、苦しさを押し隠した死が確かに存在している。その静かな死によって終止符をうたれた人生にも、4人と同質の悲傷がある。