ジル・ドゥルーズ「スピノザ」

Gilles DeleuzeSpinoza : Practical Philosophy」


ドゥルーズは、学位論文「差異と反復」の副論文としてスピノザ論「スピノザと表現の問題」を提出した、というくらいに哲学の出発点をスピノザに負うところが大きかったらしい。「資本主義と分裂症(アンチ・オイディプス千のプラトー)」の出版の翌年にこのスピノザ論は発表されているけれど、ドゥルーズの見るスピノザの問題意識と、ドゥルーズ自身の諸問題に関する批評の方向性は、どこか似ている。
「アンチ・オイディプス」によって鮮やかに解き放たれた、呪縛のひとつはこうだ。父母を侵犯するべからずという道徳観念は、それを情動においてはどうしても望んでしまうから生まれた禁止項目なのではなく、逆にその禁止命令が出たことによって、あたかも情動においてはそれを望んでいたかのように錯覚してしまっているだけだ。
このような転倒がスピノザにおいては、因果律の錯覚として問題視されている。意識はもともと錯覚しやすい。嬉しい・悲しいといった情念は結果として確認することができるけれど、その原因を知ることはないからだ。ただ、何かが原因となって引き起こされた情念であるのに、意識はものごとの秩序を転倒し、結果を目的ととらえることで、原因に関して無知であることから逃れようとする。情念は合目的であり自分の意志で引き起こしたものなのだ、と思い込むのだ。こうすることによって、情念という身体的な運動を、意識の支配下に置こうとする。また、情念を自分の意識の支配下に置くことが困難な場合には、神の支配下に置こうとする。(目的因の錯覚/自由裁量の錯覚/神学的錯覚)。
この転倒した意識はさらに、情念を自分の意志の下に置くという錯覚をする上で、その意志決定のための意識の規範を外部に置くことすらある。そして彼らはそれを採用することによって、特定の外部の服従の原理に、自らの情念を屈服させることになる。道徳(モラル)のことだ。


「道徳的な法とは、なすべきこと・あるべきこと(義務・本分・当為)であり、服従以外のなんの効果も、目的ももたない。そうした服従が必要不可欠の場合もあれば、その従うべき命令が十分根拠のあるもっともなものである場合もあることだろうが、そんなことは問題ではない。問題は、こうした道徳的もしくは社会的な法が私たちに何ら認識をもたらさず、何も理解させてくれないということだ。最悪の場合には、それは認識の形成そのものを妨げる(圧政者の法)。最善の場合でも、法はただたんに認識を準備し、それを可能ならしめるにすぎない(アブラハムの法・キリストの法)この両極端の中間では一般に法は、その生のありようゆえに認識するだけの力をもたないひとびとのもとで、認識の不足を補う役割を果たしている(モーセの法)。だが、いずれにしても認識と道徳とでは、<命令>に対する<服従>の関係と<認識されるもの(真理)>に対する<認識>の関係とでは、そこに本性上のちがいがあることはおおうべくもない。」


道徳は実際には単なる服従命令にすぎない。でも、それがあたかも情念をコントロールするための認識の規範であるかのように化けつづけた。スピノザは「モラル」の化けの皮を剥いだあと、かわりに「エチカ」を提示した。生は合目的である訳ではない、必要があるからそのための手段や目的に応じて生きるのではない。自らの持てる力能から出発して、その原因や結果に応じて生きること、「エチカ」とはこの生態の倫理のことだ。この考え方のなかでは、いっさいの悪しきことは、いわば食あたりや消化不良のようなものとしてとらえられる。スピノザの言う自然は「エチカ」の適用された世界であり、この自然は神そのもの(神すなわち自然Deus sive Natura)だ。実体はただひとつしかなく、それが無限に多くの属性を持っている。森羅万象はそれら属性のとるさまざまな様態的変容にすぎない。
自然が神そのものだと述べるとき、スピノザは多くを、実体はただひとつしかない、という考え方に依っている。これはつまり、情念は自分の意識の支配下にあるという錯覚が暴かれてしまった以上、情念が常に他のものからの決定を受けていると認めざるを得ないからだ。他のものの決定に自分の身体感覚が依存している以上、自分の意志と自分の自由とが他から切り離されていず連続しているのだから、ここで敢えて実体を分割する必要なんてない。意識と情念が連関しながら成立しているから、すべての存在するものには必然性がある。「……すべて存在するものは必然的に存在し、必然性以外の様相をもたないから、ただひとつ自由な原因といわれるべきなのは「自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身によってのみ作用へと決定される」原因(自己原因)である。……」
スピノザは、汎神論と無神論とを両立させるのに成功している。ただひとつの実体である神の一様態で世界が埋め尽くされているのと同時に、すでに超越的な仕方では存在しなくなっている。ただし、宗教神が自分の欲したこと以外のことを為すことができなかった(存在しないということができると、神の永遠性と矛盾する)のに対し、スピノザの神は、意志の力と結びつけられていないために、可能性のモデルによって自らの力能を制限することがない。アガンベンの神、バートルビーも別の仕方で乗り越えていたが…。


スピノザのこの思考モデルは、ドゥルーズリゾームやそれらがせり上がった高み(プラトー)のことを想像させる。現代を知らない17世紀の思想をいくぶんかでも掌中にできるようになるには、まだ先は長くて、今のところは、自分自身の経験との類推を許してくれる同時代の人々、20世紀の思想の助けを借りるしかない。