プラトン「国家(下)」



これがどんな本だったのかが、最後まで読んでようやく分かった。
プラトンの「国家」は、かなり美しい形でひとつの論理空間としての「国家」を生み出している。暴論を含むし、現実性に乏しいし、重要な事柄の捨象も激しい。でも、この論が存在する平面上においては、とにかく論理的整合性が追求されていて、それはきわめて高い。外部を参照していないから拡散することもなく、原理原則が明瞭に見出される。そして、対話という形式は、一種の整流装置として採用されているだけで、論の成り行きそのものに影響を与える可能性は予め排除されている。
こういう、包括的に論理的に空間を構築していくものは、読んだ記憶があまりない。この本を推薦した友人が数論の研究者だというのが腑に落ちる。読んでいて、いろいろなことを思い出す。ランシエールが語った、民主制に潜む根本的な憎悪感情のこと。クリント・イーストウッドの言葉、民主主義が最良の国制とは限らないこと。民主化を他国に強制することによって、その国を属国化するという政策、ブレジンスキーのこと。芸術が根本的には神の似姿であることは、今までに何冊もの本からその類の主張を聞いてきた。バタイユが陥った快楽の極限点についても、ここに暗示されているように見える。実存に関わる争点も、問題の整理はここで既になされていて、後の時代に続くものはすべてその展開に過ぎないかのように見える。
ランシエールアガンベンが論述中にプラトンを引用するのが、やや唐突に見えたことがあった。どうしてそこまで時代を遡るのかと。民主制のことならば中世の王制転覆まで遡るのでもいいし、神の似姿のことならば近代絵画の発生まで遡るのでもいい。全く時代状況が異なる地点のことを何故引き合いに出すのだろうかと。でも彼らはおそらく包括的な視点が欲しかった。問題が微に入りすぎて巨視性が必要になったとき、ここに戻ってきていた。わたしにとっても、そういう本になるといいなと思う。


「しかしどうだろう、この点は明らかとはいえないだろうか?ーすなわち、正しいことや美しいこと(見ばえのよいこと)の場合は、そう思われるものを選ぶ人が多く、たとえ実際にはそうでなくても、とにかくそう思われることを行ない、そう思われるものを所有し、人からそう思われさえすればよいとする人々が多いだろう。しかし善いものとなると、もはや誰ひとりとして、自分の所有するものがただそう思われているというだけでは満足できないのであって、実際にそうであるものを求め、たんなる思われ(評判)は、この場合にはもう誰もその価値を認めないのではないか」
「それならば、われわれは、苦痛からの解放がそのまま純粋の快楽であり、快楽の終ることがそのまま苦痛にほかならないとは、信じないことにしよう。」
「思うに、神はこうした事態を知っているがゆえに、真にあるところの寝椅子の真の作り手となることをーけっして或る特定の寝椅子を作る或る特定の製作者となることをではなくーお望みになっって、本性(実在)としてのただ一つなる寝椅子を作り出されたのだ。」