フラナリー・オコナー、サリー・フィッツジェラルド編「存在することの習慣」
Flannery O’Connor, Sally Fitzgerald「The Habit of Being」
フラナリー・オコナーの書簡集。フィッツジェラルド夫妻は、彼女が小説を発表する前にはほぼ必ず、事前に草稿を送り意見を仰いでいた、大切な友人だった。サリーは批評家であり、夫ロバートも文筆家。オデュッセイアを翻訳したらしい。2人とも十分な批評眼を持ち、生前からオコナー文学の意義を見抜いていて、彼女の出版に協力を惜しまなかった。サリーはオコナーのことをこう描写している、「……私から見ると、彼女は自分自身の言葉から立ち上がったスフィンクスとして、そこに立っている。おちついて、動きがおそく、滑稽で、礼儀正しく、控えめでいながら自分に確信を持ち、激しい気性で、鋭く核心をつき、篤い信仰の持ち主だが敬虔ぶることはなく、率直で、時には猛烈、言葉への信義を守る上で偽りがない。……」また、オコナーの著作を読んだある読者からの手紙に対して、オコナーはまさに自分の表現意図が的確に読み取られていることに驚き、彼女とも手紙のやりとりを頻繁にした。たかだか一般の読者であるのに、草稿を送って意見を求めてすらいる。
オコナーは、自分の信頼する友人や編集者の批評はとことん受け入れ、抜本的な書き直しすら厭わなかった。また逆に、彼らの人生の問題にも積極的に介入した。作品そのものや編集者との間の初期の書簡から見られる、頑固で孤独な人物像とは程遠く、彼女は、彼女が信頼する人々と、きちんとつきあいつづけた。
この書簡集には、彼女の小説についての考えと、カトリックについての考えが多く含まれる。
「あの人造黒人で暗示したかったのは、黒人の苦しみが私たちすべてに対して購いの本質をもつということでした。」(「人造黒人」)
「ヘイズは賢い血をもつおかげで救われます。キリストを否定するのは結局、彼の知恵を超えています。賢い血はこういう人びとにとって恩寵の手段です。彼らは秘跡なしでやっているのですから。南部の宗教は自力でまにあわせる宗教です。カトリック教徒としての私から見ると、痛ましくて胸にこたえ、同時にそのまじめさが滑稽に思えます。無意識の誇りが、あらゆる種類の滑稽な宗教的苦境へと彼らを導くのです。実践上の異端を正すものをまったくもたないため、彼らは劇的にとことん突き進むのです。これが私にとってただ喜劇的に見えるだけだとしたら、具合がわるいです。そうではなくて、彼らのおこないを、おなじ罪と購いと裁きの教理の原理主義的現れとして、私は受け入れます。」(「賢い血」)
「一歩ごとに信仰に報いなくてはならない人もいるし、信仰がないとしたらどんなふうか、信仰なしだったら存在自体が可能かどうかを、劇的に描きださなくてはならない人もいるのです。」
オコナーはある神父が述べた「受動的縮小」という言葉の意味を知る。決して変えられない苦痛や喪失を晴朗な態度で受け入れよ…。