フランツ・カフカ「訴訟(審判)」



ある朝突然、悪事をはたらいたおぼえがないのに、ヨーゼフ・Kは逮捕された。それから1年後、31歳の誕生日の前夜、ヨーゼフ・Kは処刑された。
カフカ「訴訟」では、Kがこの1年間に囚われ続けた訴訟沙汰について、彼の生活に起こった事件についてとりまとめられている。


Kにしてみれば今回の逮捕は理不尽きわまりない。監視人が朝方いきなり部屋におしかけてきて、Kに逮捕を告げた。しかも彼らはKの罪を知らない。Kには何かの冗談か手違いだとしか思えなかった、ものごとを軽く考える癖が付いていたのだ。たいした問題には発展しないのに違いない、一度は彼らの言うことに付き合ってやり、法廷にあたる場所で無実を主張すればいいだけだろう。Kは滑稽な振る舞いをする監視人たちを軽んじてしまった。彼らの言葉をよく聞こうとしないKに彼らは言う、「あなたは意味のある尋問を放棄したのですぞ」、後になってみれば、このとき尋問をされていたならKには多少の目処がついたに違いない、もしあるとすれば自分の罪がどんなものであったかを。Kは最初から挫折してしまった。
Kは逮捕はされたものの連行はされなかったので、普段通りに銀行の支配人としての仕事を続けた。法廷は日曜に開かれるということで、通知どおりの住所地に赴き、広い建物の中で法廷の部屋を探す。部屋の場所は通知されていなかったから、建物内を行きあたりばったりにさまよっただけだ、でもどういう訳かKは法廷にたどりつくことができた。自分ではどのようにしたら意図を達成できるのか分からずに行動するのに、いつの間にかその意図は達成されているということ、このようなことがこの訴訟沙汰ではその後しばしば起こるようになる。いつの間にか訴訟に関する場所に、訴訟の関係者にたどりつくことになっている……訴訟沙汰に巻き込まれた途端、Kの行動のすべてがそうとは知らぬ間に、訴訟のほうにばかり向かうようになる。
Kは訴訟沙汰に気を取られて仕事が手に付かない。彼には訴訟の手続きが理解できない、どういう間合いで法廷は開かれるのか、弁護士は必要か、請願書などは提出したほうがいいのだろうか?Kは、助けになってくれそうな人物たちに相談する。自分は無罪だ。悪事をはたらいてなんかいない。でも法律を知らないのに無罪だと言い張れるのか?Kが知らない法律を他の多くの人が知っている。そして、法律を知っているということはそのまま、訴訟沙汰に関係しているというのと同値だ。ふと気付くと、周囲の人々、会う人会う人すべて訴訟関係者なのだ。実際、逮捕のときに監視者に同行していた3人は、Kが支配人を努める銀行の下っ端行員だった。(Kは指摘されるまでそれに気がつかなかった。)銀行の取引先の工場主に、訴訟に役立つからということで紹介された画家の屋根裏部屋は、実は法廷事務局に通じていた。画家によると、かなり多くの建物の屋根裏が訴訟関係の事務所で占められていると言う。画家は説明する、訴訟には3つの可能性があると。「ほんとうの自由と、見かけの自由と、引きずっていく場合。」Kの訴訟はまだ下級審の段階だから、ほんとうの自由は得難い。下級審でとにかく勝てば見かけの自由は得られるけれど、ただし苦労するし上級審でふたたび逮捕されるかもしれない。引きずっていくのが最も可能性がある。下級審を延々と繰り延べさせ、結審しないこと。
ただKはうまく立ち回れない。訴訟に関連する人たちの振る舞いは道化芝居に見えて、Kと同じ世界の相にいるような気がしない。同じ世界を見ているのに、審級があまりに違いすぎるのだ。法廷の机に置いてあった法律書を覗くと、それは猥雑な写真集と官能小説だった。でも女性たちはなぜか彼に味方する。彼女らは法律を理解しているようで、Kに対して忠告を惜しまず、また訴訟関係者に反抗してでもKの味方をすることすらある。法を知りながら法にとらわれているようではない彼女たちに、Kは強く惹かれてしまう。彼は自らすすんで彼女らの誘いに便乗する。(「城」でも多くの女性たちがKの味方に付き、Kと女性たちとの間には脆いながらも、一種の共犯関係がとりむすばれる。法律と和解するのに女性の力を借りること、でも結局は良い結果を生まないということは、カフカ自身の実生活に大きな挫折感を生んだに違いない。)
Kが銀行の顧客と待ち合わせるために、観光地の大聖堂に赴くと、そこでは聖職者が彼を待ち構えていた。去ろうとするKを呼び止める、「ヨーゼフ・K!」彼は自分は教誨師だと名乗った、いつの間か最期のときが近付きつつあったのだ。そして、「掟の門」の寓話を語る。掟の門の前で、入門許可を待ち続けた男、門の前で死んではじめて門番は語りかける、これはお前のためだけの門だったのに。(ところで、この大聖堂のくだりはドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」の「大審問官」を彷彿とさせる。)
終に、またしても唐突に、Kのもとに2人の男が訪れる。でももはやKはそれが唐突だとは思わなかった。Kたちは連れ立って、郊外の石切り場へと足を運ぶ。衣服を脱がされ、腰掛けた自分の頭上を、2人が肉切り包丁を右往左往させているのを眺めて、Kは正確に理解していた。この包丁を奪って、自分で自分に突き刺すべきなんだろう。Kはようやく法律を理解しつつあった。


自分の意志で自然に行動していると思うのに、いつの間にかそれは法律のなすがままになっている。そしてその法律の埒外にいる人にとっては、その行動は滑稽にしか見えないし、自分が治外法権にいることができないのは理不尽に思えてしまう。法律に従わない身体はただそれだけで訴訟にかけられる。訴訟で重要なのは罪状や判決ではない。罪を確定させて罰を負わせる必要はない。そうではなく、訴訟のプロセスの中で、身体を法律に従属するように矯正するのが重要なのだ。矯正の見込みがあればひとまず保護観察下におかれ有罪にはならない。訴訟は延々と繰り延べされるときに最大の効力を発揮する。しかしKは繰り延べに耐えられなかった、廃人のようになった被疑者たちを目の当たりにしていたのだ。しかし判決を望むのならそれは無罪ではありえない。自分の罪状が分からないのに無罪が立証できる訳がない。彼は有罪となり処刑された。最期にひとこと「犬のようだ!」と叫び、恥辱だけが生きのびる予感を抱いた。
カフカは「城」も「訴訟」も、法を持たない身体とその苦しみを描いているように見える。ロベールはそれをカフカ個人の苦しみと彼にとっての文学の必要性に波及させたし、ドゥルーズガタリは、少数派としての文学の実践に拡張させた。でもそればかりじゃないんだろう。同時期にかかれたカフカの短篇「流刑地にて」は、グアンタナモにあまりにも似過ぎている。アガンベンが、法の適用されない身体を存在させた例としてたびたび言及している、あの地にそっくりじゃないか。