ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「千のプラトー 資本主義と分裂症」

Gilles Deleuze + Félix Guattari「Mille Plateaux」


千のプラトー」を漸く読了。「アンチ・オイディプス」の続編だが既読であることを前提にしていない、と謳ってはいるものの、全体的に論の抽象度がかなり高くて、かつ具象から抽象への飛躍が一息でおこなわれているので、少なくとも、ドゥルーズガタリの概念についてのある程度の知識を前提にしている。また、緒言で「本書は、章ではなく、『プラトー(高原)』によって構成されている。……ある程度まで、これらのプラトーは、たがいに独立に読みうるものであるが、結論だけは終わりに読むべきである。」と書いてあるけれど、独立に読めるのは章立てされたもののうちのごく一部、具体的な事象を採用してそれに特化して検討したプラトーのみ、と考えたほうがよい。ただそんなプラトーたちは、高度な抽象論のあいまの休息にはなるし、理解の助けにもなる。話題は文化論(音楽/文学/…)から科学論(数学/物理学/…)、さらに訴訟、戦争、国家にまで及んでいて、生きることのすべてに言及しようという壮大さには圧倒させられる。でも壮大ではあるんだけど、結局は自分自身の身体の問題だ。じゃあやっぱり「アンチ・オイディプス」のときと同様、ディテールは無視してでも身近なプラトーを手許にひきずりおろして、再領土化させてしまおう。


ある料理を食べておいしいあるいはまずい、あまいしょっぱいを感じるというのは、どういうことなんだろう。同じ文化圏にいて似たような食生活を送っていると味覚は似てくるし、同じ料理を食べ続けていると各皿ごとの味の微差に敏感になってく。生まれてこのかたずっと料理を食してきて、良い味/悪い味の2極、あまい・しょっぱい…の味覚の差異化は自然とおこなわれるようになった。ただ、どんな判断基準で良い味を格付けしているのか、どのような刺激を舌に受けたときにあまいと表現するのか、と考えると、それは「これが良い味のものだ」「これがあまいものだ」という性格付けを長い年月を経て体得してきた結果のように思える。食物を身体の中にとりこむという行為、つまり生きるための食事に対して、あくまでも付加的な要素として、おいしい、あまいという文化的な<コード>が適用されているんだと改めて実感する。身体の食を司る部分に、味覚<器官>が接続されて、食物が料理として機能しはじめたということだ。このとき、味覚の差異化が各文化において似ているのは、(つまり、どの文化間でもあまい/しょっぱい/からい/すっぱい…の分割ラインが似ているのは、)おそらく味覚に普遍的な構造があるからだと思われるし(生成文法的解釈)、良し悪しの二極が各文化においてわりと一致しているのは、(つまり、日本人にとっておいしい和食は多くの外国人にとってもおいしい和食であるのは、)生きるための食事たるに十分かどうかの判断が、いまだに幅を利かせているためだとも思える(あるいはクオリア的解釈?)。ドゥルーズガタリが述べる<器官なき身体>はまさに生きのびるためだけの食物摂取をおこなうに過ぎないけれど、さまざまな<コード>を手に入れてはじめて、料理というものが存在した。しかもいったんその<コード>を手に入れてしまい、身体に器官を接続してしまったなら、身体は無限に<リゾーム>状に広がる味覚のネットワークに自然に組み込まれてしまう。もう特別な料理なんて存在しない。他の身体が味わったことがあるのと同じ味を楽しむだけだ。それとも<コード>を手放そうか?動物は料理を存在させずに済ましているけれど。
日常生活においてでさえ、料理に関する<コード>は頻繁に参照されるし、身体に接続される<器官>はすこしづつ<リゾーム>の接続回路を変えていく。もちろん一つ一つはささやかな経験ではあるけれど。昨年の秋に友人と訪れたスペイン料理屋で「おいしいピーマンの肉詰」を食べて、それを帰省したときに実家の広いキッチンで再現しようと思った。そのスペイン料理屋ではべろんべろんに酒に酔ってしまったから、料理に関する記憶は大雑把だ。食材の構成の仕方、7cm程度の径の中空の野菜に挽いた肉を詰め込むという<アレンジメント>がピーマンの肉詰と呼ばれる料理に似ていた、ただしその野菜は箸で切れるほどに柔らかく、細かめに挽かれた肉との相性が良くて、それは最もシンプルな<コード>に従って言えば、おいしかったのだ。さて、この料理をどのように再現しよう?料理として提供されたものをもう一度食材に解体し、一方では、おいしいと概括してしまったものを再度こまかく要素にわけて分析していくのは、料理を料理でなくすること、<脱領土化>して食物へと還元してしまうことでもある。……野菜は赤かったから赤ピーマン、でも柔らかかったのは調理上の手法なのか、一回赤ピーマンを茹でてから肉を詰めるのか、いや火を通さなくても柔らかいものがいいのか、サラダ用のあのパプリカを使ったのか、そういえば肉厚だったかもしれない……パプリカはそこそこ大きいし挽肉がかなり塊状になるから弱火できちんと火を通さなくては、もしくは蒸し焼き気味、でも肉に焦げ目はつけなくちゃだからパン粉をきちんとつけて、最初はフライパンに油ひいて肉の面から焼かなくちゃ……肉がすぽっと抜けちゃうから、パプリカの内側に接着用の小麦粉いるよね……一連の手間をかけて<再領土化>された料理はおいしかった。でも明らかに足りない<コード>があることは、やっぱり<領土性>を獲得している段階でない限りはわからないものだ。火からおろす前に水分をとばした方が良かったし、パプリカの薄い皮を剥いた方が良かった。


とまあこんだけ女子度アピールしとけば十分でしょ。最後に、ドゥルーズガタリが<器官なき身体>について述べた、美しい文章を残しておこう。クッツェー「マイケル・K」やベケット「モロイ」の身体のことを思い出しながら。
「虫けらのように地を匍い、盲人のように手探りし、砂漠の旅人や大草原の遊牧民や、狂人のようにさまようとき、人はもうCsO(Corps sans Organes器官なき身体)の上にいる。その上でこそ、われわれは眠り、夜を明かし、戦い、戦いに勝ち、戦いに敗れる。自分たちの場所を求め、未聞の幸福や、途方もない没落を経験し、侵入しかつ侵入され、そして愛する。」